長州藩は、幕末の討幕運動では大きな役割を果たした、外様大名・毛利家の藩です。
久坂玄瑞はこの激動の時代を駆け抜けた長州藩を代表する藩士の一人でした。
どんな人物だったのでしょうか。
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久坂玄瑞はどんな人?
- 出身地:長門国萩平安古本町(現・山口県・萩市)
- 生年月日:1840年5月
- 死亡年月日:1864年8月20日(享年25歳)
- 幕末に低い身分の藩士から長州藩の尊皇攘夷活動のリーダー的存在となるが、禁門の変にて志半ばにして自害した
久坂玄瑞 年表
西暦(年齢)
1840年(1歳)萩藩医・久坂良迪の元に誕生
1854年(15歳)藩医久坂家の当主となる
1856年(16歳)九州に遊学する
1857年(18歳)吉田松陰の松下村塾に入塾
1859年(20歳)安政の大獄に連座して吉田松陰が伝馬町処刑場にて刑死
1862年(23歳)英国公使館焼き討ち事件に加わる
1863年(24歳)下関で外国船砲撃を実行
1864年(25歳)禁門の変にて自決
久坂玄瑞の生涯
尊皇攘夷志士・久坂玄瑞の短かくも激しい25年の生涯を追ってみましょう。
天涯孤独から松下村塾の双璧の一人に
1840年長門国の萩にて、藩医の久坂良迪と富子の間に生まれた玄瑞。
家庭は決して豊かではありませんでしたが、優秀な医師だった父と兄の影響を受けながら聡明な少年に成長しました。
幼い頃から寺子屋・吉松塾で机を並べた高杉晋作とは幼なじみです。
しかしまず母親が、そして兄と父親も次々と亡くなり、1854年の15歳の春、天涯孤独となりました。
その後、彼は成績優秀の特待生として好生館の寮生となり、さらには藩校明倫館でも勉学に励んだようです。
玄瑞は、やがて兄の旧友である尊皇攘夷の僧・月性上人や遊学中に会った宮部鼎蔵などに勧められ、1857年に吉田松陰の松下村塾に弟子入りしています。
幼なじみの高杉晋作も入門し、2人は良きライバルとして切磋琢磨したのです。
彼らは共に松下村塾の双璧、もしくは吉田稔麿、入江九一も加えて「松門四天王」とも呼ばれるほど優秀でした。
のちに、玄瑞は吉田松陰の妹・杉 文と結婚しています。
師・吉田松陰の死と尊皇攘夷活動
松下村塾では、玄瑞を始め多くの若者が「尊皇攘夷」について議論しました。
尊皇攘夷とは、
という考え方です。
しかしこれに危険を感じた幕府は、安政の大獄という100人以上の大名・公卿・志士たちへの思想弾圧を決行。
これに吉田松陰も連座し、処刑されてしまったのです。
玄瑞は吉田松陰の意志を受け継ぎます。
1862年の皇女・和宮の降嫁による公武合体の実現後も、玄瑞は桂小五郎らと共に長州藩を導き、攘夷をもって幕府を追い込もうとしました。
玄瑞らの行動はどんどん過激化します。
1862年、薩摩藩がイギリス人を殺傷した生麦事件が起きると、長州藩も、江戸のイギリス公使館の焼き討ち、さらに下関海峡を航行するイギリス船への砲撃を実行。
それがきっかけで英、米、仏、蘭の四国連合艦隊と長州藩との下関戦争となりました。
装備の違いで甚大な被害を被った長州藩は、公武合体派の諸藩や幕府との対立を深めたのです。
禁門の変、玄瑞死す
元々外国嫌いで、攘夷論の理解者だった孝明天皇までもが長州を危険視し始めます。
それは尊皇を掲げる玄瑞にとって、予想もしない口惜しい出来事でした。
そこで、朝廷となんとしてでも話しをつけたい久坂たち長州藩は、武力をもって朝廷に押しかけたのです。
しかし、御所のまわりは警護され、長州藩は警護隊と衝突。
久坂は戦いの中で重傷を負ってしまいます。
それでも公卿・鷹司輔煕に嘆願して朝廷との話しをつけようと彼の屋敷に侵入しました。
しかし、輔煕はこれを拒絶。
もはやこれまでと悟った玄瑞は、仲間の長州藩士・寺島忠三郎と共に、鷹司邸内で互いを刺し違えて果てたのです。
もともとは冷静で、大局を見ることのできた知性派の久坂玄瑞。
いつのまにか過激な尊皇攘夷志士となり、最後は激しく散らせた命でした。
久坂玄瑞の墓所
玄瑞の複数ある墓所はいずれも彼の仲間と共にあります。
【霊山護国神社:京都市東山区清閑寺霊山町1】
墓地の中段ぐらいに長州藩士の墓が並びます。
高杉晋作、入江九一、来島又兵衛などと共に玄瑞の招魂墓があります。
【市指定遺跡「吉田松陰の墓および墓所」内の久坂玄瑞墓:山口県萩市椿東243‐31】
この墓所でも玄瑞は一人ではありません。
高杉晋作ほか、父親・久坂良迪、兄・玄機の墓も見られます。
玄瑞は幕末の超モテ男だった
京における長州藩士たちは金払いがよく、遊び方も粋だったといいます。
京の色街の女性たちには人気がありました。
その中でも玄瑞はダントツでした。
色白の美男で、少し右眼が斜視気味気味だったという玄瑞は、体格もよく、当時としてはかなりの高身長の6尺(約180cm)。
声は大きく美声で、その彼が歌を吟じながら鴨川を歩くと、川沿いの店から女性たちは窓を覗かせ、「長州の久坂さんや」と騒然となったのだそうです。
勉学のできる秀才だった玄瑞は、早くに家族全てを亡くして15歳の時から天涯孤独でした。
そんな彼に薄幸や孤独の影があったのでしょうか。
その影が彼をさらに魅力的な男性にしたのかもしれません。
ちなみに、現在玄瑞の肖像画とされる絵は、彼が京都の芸妓との間にもうけた息子・久坂秀次郎をモデルに描かれたものです。
のちに松下村塾門下生の一人が肖像画を見て「玄瑞ではない」と断言したそうですが、現在に残る玄瑞の肖像画としてはこれしかありません。
坂本龍馬の土佐脱藩のきっかけは久坂玄瑞?
1862年、土佐藩の坂本龍馬は、武市半平太の手紙を持って久坂玄瑞に届けるために萩へやってきました。
その時、玄瑞と龍馬がどのような話をしたのかは明らかではありません。
やがて龍馬は、以下のような久坂の返事を持って再び土佐に戻っています。
「竟に諸侯(諸大名)恃むに足らず。公卿恃むに足らず。在野の草莽糾合、義挙の外には迚も策これ無き事」
(もう諸大名も公卿もあてにはできない。なもなき在野の者が結束して行動する他にはもう策がない)
さらに玄瑞はこうも言っています。
「失敬ながら尊藩(土佐藩)も幣藩(長州藩)も、滅亡しても大義なれば苦しからず」
(悪いが、あなたの藩も私の藩も目的を達するためなら滅びてもどうでもいいではないか)
「侍や公家を頼ることなく一般人が立ち上がる時代なのだ」。
「欧米が日本に迫る中、藩のような小さなことは忘れて日本を考えろ」
と説く玄瑞。
この言葉は、土佐藩を勤皇で一本化しようとムキになっていた武市半平太の考えを改めることにはなりませんでした。
しかし、これに反応したのが坂本龍馬なのです。
吉田松陰仕込みの久坂玄瑞の草莽崛起論(身分を問わず、一般人が立ち上がって新時代を築くこと)に触れた龍馬は、たちまち脱藩しました。
現在、坂本龍馬脱藩は、おそらくこの玄瑞の言葉に影響されたと考えられています。
きょうのまとめ
今回は、幕末の長州藩で尊皇攘夷の先頭に立って活動した、久坂玄瑞についてご紹介しました。
久坂玄瑞とは
① 高杉晋作と共に吉田松陰に見込まれ、尊皇攘夷を牽引した松下村塾門下生の志士
② 詩吟を愛し、京では女性に人気の美男長州藩士
③ 草莽崛起論を広く説き、坂本龍馬の脱藩にも大いなる影響を与えた人物
でした。
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