久坂玄瑞は長州藩士。
あの高杉晋作と同じです。
二人は幕末に尊皇攘夷志士として活躍しました。
ライバルであり、同志であり、友人でもあった2人について見てみましょう。
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久坂玄瑞と高杉晋作を比較する
2人のバックグラウンドを比較しましょう。
久坂、高杉の比較表
2人の比較を簡単な表にしてみました。
各項目について詳しくは、この後みていきます。
久坂玄瑞 | 高杉晋作 | |
---|---|---|
生年 | 1840年 | 1839年 |
出身地 | 長門国の萩 | |
出自 | 長州藩の藩医の子 | 裕福な長州藩士の子 |
学歴 | 漢学塾 好生館 明倫館 松下村塾 |
漢学塾 明倫館 松下村塾 昌平坂学問所 大橋塾 |
外見 | 180cm | 小柄 |
特技 | 詩吟 | 都々逸 |
剣の腕前 | 不明 | 柳生新陰流剣術の免許皆伝 |
性格 | 秀才、冷静 | 自信家、頑固 |
志士になるまで
【年齢・出自・学歴】
久坂玄瑞は1840年生まれで、高杉晋作は1839年生まれ。
1歳違いの同世代でした。
2人の出身地は同じ、長門国の萩です。
長州藩士でした。
久坂玄瑞と高杉晋作がライバルになったのも、友人になったのも自然なことでしょう。
久坂の父親は長州藩の藩医でした。
彼は、地元の漢学塾で勉学に励みました。
しかし、両親と兄を早くに亡くし、たった15才で久坂家の当主にならざるを得ませんでした。
天涯孤独の玄瑞は、兄の友人たちに支えられて生活しました。
しかし彼は学問では優秀だったため、藩費で寄宿舎に入れる制度を利用して藩の医学所・好生館の寮生となって勉強しました。
そして、医学を離れて藩校・明倫館でも学び、のち松下村塾に入塾しています。
高杉晋作は、裕福な藩士の息子として生まれました。
10歳の頃に疱瘡を患いましたが、漢学塾を経て藩校の明倫館に入学。
のち、松下村塾で玄瑞と共に学び、藩命で江戸に遊学した際には、昌平坂学問所や大橋塾などで学びました。
どんなタイプ?
尊皇の志士として目的を同じくした彼らは、似た所もあれば、全く違う所もありました。
【外見】
久坂玄瑞は身長180cmもあり、当時としてはかなりの長身でした。
一方、高杉晋作は小柄で、それを気にしていた様子です。
そのため直立して取った写真は現存しないのだそうです。
【特技】
久坂玄瑞は詩を作り、吟じるのが得意だったと言われています。
彼の詩吟の流派は久坂流として現在にも続いています。
一方、高杉晋作は都々逸が好きだったようです。
「三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」の都々逸は晋作の作品だと言われています。
現在でも萩の民謡の歌詞として親しまれています。
【剣の腕前】
久坂玄瑞についてはどのくらいの腕前だったかよくわかりません。
しかし、長身の彼が、宴席で芸妓を碁盤の上にのせたまま持ち上げた、と言う話も残っているほどの力持ちではあったようです。
一方、高杉晋作は、柳生新陰流剣術の免許皆伝の腕前です。
剣には自信がありそうです。
識の高杉、才の久坂
尊皇攘夷の志士としての彼らはどうだったでしょう。
【性格】
久坂は、秀才タイプで冷静、そして柔軟な考え方ができる人物でした。
高杉は、なかなかの自信家で頑固。
鼻っ柱の強い人物だったと言われます。
【吉田松陰の2人に対する評価】
松下村塾の師匠・吉田松陰は、高杉を評して
と言いました。
松陰は、晋作の非凡さを早くから見抜き、同時に彼の欠点についても知っていました。
彼は、剣術ばかりで学業に打ち込まない高杉を奮起させるために、わざと幼なじみの久坂ばかりを褒めたといいます。
高杉はその悔しさをバネにして学問にも打ち込んだのです。
松陰の久坂玄瑞に対する評価は以下の通りです。
「久坂は年こそ若いが、志はさかんで気魄も鋭い。しかもその志気を才で運用する人物である。長州藩の若手の中では第一流の人物であるとつねに推奨してきた」
吉田松陰は2人をライバルとして競わせ、2人は松陰門下の双璧となります。
松陰は
といい、二人力を合わせれば不可能なことは何もないと述べています。
師匠としては、2人を頼もしく思ったことでしょう。
【久坂と高杉のお互いの評価】
久坂と高杉はライバルでありながらお互いのことを高く認め合っていました。
久坂は高杉晋作を評して
「思慮周密、その歳は当世無比」
「晋作は遂に吾が及ぶ所に非ざるなり」
とべた褒めです。
一方、高杉は久坂玄瑞を評して
とやはり高く評価しています。
高杉から久坂への手紙
高杉から久坂へ宛てられた手紙は残っているのですが、その逆の久坂から高杉への手紙については見られないようです。
実は、久坂は字を書くのが下手だった、という話しもありますが。
これは・・・恋文?
高杉は、江戸遊学中に萩にいる久坂に多くの手紙を送っています。
当時江戸にいた仲間たちも多くは萩へ帰国しており、寂しさもあってのことでしょう。
ただ、その内容はまるでラブレター。
概略は以下の通りです。
これだけではありません。
高杉から久坂への別の手紙では、
などと嫉妬しているような内容の手紙まであるのです。
この高杉のあふれんばかりの思いがこもった手紙を、久坂はなんと思ったでしょうか。
うそだ、久坂が・・・? 吉田松陰の兄にすがった高杉の手紙
それほど久坂玄瑞を慕っていた高杉晋作です。
1864年の禁門の変における久坂の死を耳にした彼は、非常なショックを受けました。
当時、高杉は脱藩の罪で投獄された後で、自宅謹慎中でした。
身動きできないながら心配でたまらない彼は、すがるように以下の手紙を吉田松陰の兄・梅太郎に送っています。
久坂のことを夢にみるほど心配し、狼狽していた高杉でした。
しかし、その時久坂はもうこの世にはいなかったのです。
その事実を知った高杉の気持ちはいかばかりだったでしょう。
そして、高杉晋作自身も久坂玄瑞が亡くなった3年後に27歳で没してしまうのでした。
きょうのまとめ
今回は、同じ長州藩、同じ松下村塾の門下生としてライバルであり、同志だった久坂玄瑞と高杉晋作の関係について比較しながらご紹介しました。
きょうのまとめ
① 久坂玄瑞と高杉晋作は同じ長州藩であり、松下村塾の門下生だった
② 吉田松陰は2人を「識の高杉、才の久坂」と評価していた
③ ライバルとして切磋琢磨していた玄瑞と晋作は、絆で結ばれた同志であり親友のような関係となった
でした。
久坂玄瑞の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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