黒田家には代々受け継がれた家宝が沢山ありました。
その中には国宝に指定されたものもあります。
マニアにとっては憧れの、そして誰もが知っている有名な品々。
それらを伝えた黒田官兵衛を祖とする福岡藩と黒田家の現在に至る子孫の系譜を見てみましょう。
黒田家存続の危機
実は、黒田家の歴史には家が存続しなくなるかもしれないほどの深刻な危機もありました。
官兵衛が黒田家を世に知らしめ、子の長政が関ヶ原の戦いの功で52万石を得て
堂々の国持ち大名となったわけですが・・・。
問題となったのはその次からです。
お家騒動
加賀騒動、伊達騒動とともに日本の「三大お家騒動」の一つとして知られるのが黒田騒動。
官兵衛の孫の代、2代目藩主黒田忠之の代での出来事です。
もともと初代当主・黒田長政は長男の黒田忠之の短気で粗暴な性格が
藩主に向かないため、家督は弟の長興に継がせるほうが良いと思っていました。
しかし栗山大膳という古参の筆頭家老が長政を説得し、
結局家督は順当に忠之へ。
忠之はそういった経緯で大膳に恩がありました。
しかし、彼にとって古くから黒田家に仕え、藩運営に口を挟む家老栗山大膳は煙たい存在。
そこで忠之は自分の意のままになる側近を家老にして重用しました。
忠之と大膳の関係は険悪になります。
1632年、大膳が忠之に謀反の気配があると幕府に訴え出てしまいました。
結局福岡藩は一度改易(所領の没収のこと)となりましたが、藩祖以来の功績を考慮されて
再度取り立てられるという形式的処分に終わり、忠之はお咎めなし。
大膳は盛岡藩の南部家に預けられましたが寛大な処分を受けました。
藩主と筆頭家老がそれぞれ藩を思って起きた不幸な騒動でした。
失う官兵衛の直系、黒田の血統
3代目、4代目は財政改革に苦労をし、次は5代目当主・黒田宣政となります。
もともと病弱だったため、政務を執ることができませんでした。
また、子供にも恵まれず、1719年に支藩の直方藩主の子で従弟にあたる
黒田継高に家督を譲ります。
そのため、直方藩は廃藩となり、所領4万石は福岡藩に含まれることになりました。
なんとかこれで福岡藩は6代目藩主継高で継続できることになったわけですが、
官兵衛からの直系の当主はここで途絶えてしまいます。
さらに、6代目継高は次期当主として期待していた息子たちを次々と亡くします。
今度は黒田の血統の跡継ぎが途絶える大ピンチに。
そこで継高は一橋徳川家からの婿養子を取り、
8代将軍吉宗の孫に当たる治之を7代目藩主としました。
福岡藩の永続を優先に考え、黒田一門と重臣たちと協議した末の決断でした。
現在に至る黒田家
その後も家督を絶やさぬために養子を取りながら、藩校を開いたり、
蘭学や西洋文化に傾倒したりする個性あふれる藩主たちが黒田の家督を継続。
最後の12代目福岡藩主は黒田長知です。維新後は藩知事を務めました。
そして時代は流れ、現在の黒田家16代目当主となるのは黒田長高さん。
不動産会社の代表取締役をされており、
大型バイクでのツーリングが趣味だというアクティブな方です。
こうして黒田家は今も続いています。
黒田家に伝わった家宝
長く続いた名家だからこそ、古くから大事にされた家宝がありました。
黒田官兵衛にまつわる物としては、織田信長から直接拝領したという
名剣「圧切長谷部」。
そして北条攻めのときに和睦のお礼として北条氏より贈られた
太刀「日光一文字」も。
どちらも国宝となっています。
また、家臣の母里友信(太兵衛)が大杯の酒を見事飲み干して
福島正則から譲り受けた名槍「日本号」も現存。
いずれも刀剣マニアにはたまらない逸品です。
まだまだあります。
日本人に広く知られているハンコと言えば、「漢委奴国王」の金印。
江戸時代に福岡で農作業をしていたお百姓さんが見つけ、謝礼と交換に福岡藩に預けました。
歴史の授業で習ったあの金印も実は黒田家にずっと保存されていたものだったのですから驚きです。
現在はいずれも福岡市博物館に収蔵されています。
おわりに
由緒ある名家にとって家督を継ぐということは簡単なことではありません。
お家騒動や世継ぎ問題を乗り越え、それでも16代続いている黒田家の変遷は、
間違いなく大切な日本の歴史の一部です。
私たちが時代を越えて存在するこれらの宝物を目にすることができるのも、
現代まで家を守ってきた人々がいたからなんですね。
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