今は県名でもあり市の名前でもある「福岡」の名付け親が
黒田官兵衛だと知ったら驚きますか?
福岡とは明治まで続く名家黒田藩の藩祖である官兵衛と
初代藩主・長政父子が発展に尽力した土地だったのです。
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姫路城に生まれ、福岡城を作った官兵衛
黒田官兵衛は播磨国(現在の兵庫県)の姫路城で生まれました。
軍師として活躍します。
また築城はもちろん、修復や縄張り(城の位置を決めること)などもあわせて多くの城作りに関わった築城の名手。
彼が最後に築いた城、それが福岡城でした。
福岡の命名
関ヶ原の戦いでは、官兵衛の息子黒田長政が一番の戦功を挙げて、家康から筑前52万石を得ました。
一度は天下取りの野望を持った官兵衛ですが、チャンスとなるはずだった関ヶ原の戦いが皮肉にも息子長政の活躍のためにたった1日で終了。
機会を失ってしまいました。
その後の官兵衛はあっさりと野望を捨て、長政と共に筑前へと移ります。
まずは小早川隆景築城の名島城(福岡市東区)に入城。
そして、古くからある大商業都市・博多をうまく利用しながら城下町を作るアイデアを得たのです。
新しい城の場所は福崎(福岡市中央区)と決められ、そこを黒田家発展の地である備前福岡村(現在の岡山県瀬戸内市)にちなんで
「福岡」と命名しました。
これが現在の「福岡」の由来です
福岡城築城
福岡城は福崎丘陵に築城されました。
朝鮮攻めの際に攻めあぐねた晋州城を手本にして作られています。
・47の櫓(敵状の偵察や射撃のための高い建物のこと)
・西に大堀
・東に肥前堀
・三の丸から二の丸、本丸、そして天守へと高さが上がっていく四層構造
などを備えた大規模で、攻めづらい構造だと言われています。
1.5キロにも及ぶ高石垣の防壁や、戦のときに必要な資材の貯蔵庫など城の備えは万全。
築城の名人として知られた加藤清正は、
と賞賛したそうです。
天守があったか、なかったかについては論議されていますが未だ確証には至っていません。
1601年に築城開始し、1607年に完成しました。
別名は舞鶴城。
博多湾からみた城の形が空を舞う鶴の姿に似ていることからそう呼ばれました。
福岡における官兵衛ゆかりの地
戦上手の官兵衛は、同時に文化人としての顔をもった多才多趣味な人物でもありました。
官兵衛と太宰府天満宮
官兵衛は福岡城内の居住用の館ができるまで、太宰府天満宮の鳥居の東に仮住まいしていました。
ここは学問の神様としてよく知られる菅原道真をお祀りした神社です。
官兵衛は和歌・連歌の神でもある菅原道真を崇敬し、自分の連歌の奉納をしています。
連歌とは、五七五七七の短歌の前の句の単語を受け、そこから連想する別の単語を入れて次の句を作るものです。
戦国武将の間で教養としても遊びとしても広く好まれました。
連歌と同様に武将の間で人気のあったのが茶の湯。
秀吉の影響で茶もたしなんでいた官兵衛は、茶を点てるために天満宮の井戸を使っていました。
「如水の井戸」(如水は官兵衛が隠居したあとの呼び名)
というのが今も境内に残っています。
戦火に焼かれて荒廃していた太宰府天満宮の状態を憂いた官兵衛。
その再建にも尽力しました。
天満宮は黒田家に対しての感謝の思いを忘れず、現在でも宝物館にゆかりの史料が多く残されています。
福岡の官兵衛ゆかりの地
趣味人官兵衛はほかにも福岡で足跡を残しています。
九州で初めてと言われる桜の「お花見」を官兵衛が行ったのが求菩提山。
芭蕉塚というところで山桜を楽しんだことが知られています。
実は、官兵衛は豊前の領主だった宇都宮鎮房を謀殺したことを後悔していたのです。
その後悔と命の空しさを桜に例えて表した歌が残されています。
福岡城内の三の丸に「御鷹屋敷」が完成すると、藩主黒田長政の傍らで暮らすことになった官兵衛。
ここでは妻の光とともに静かに余生を送ったということです。
この屋敷は、現在は「牡丹芍薬園」となっています。
また、博多区にある崇福寺は黒田家の墓所として知られています。
境内には、官兵衛はじめとして初代藩主・長政などの黒田藩主たちとその一族などが中心に祀られています。
きょうのまとめ
このように福岡には現在も官兵衛の足跡が沢山残っています。
隠居してからは、市井の人々とも気軽に話したといわれる官兵衛。
幾多の戦をくぐり抜けた武将の福岡での晩年は安らかだったことでしょう。
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