戦国武将にとって家紋は必須のアイテムです。
いわばトレードマーク。
彼らが家紋に託した意味は深く、存在意義のあるものだったのです。
例えば、戦いにおける旗印には家紋はなくてはならないものでした。
ここでは戦国武将・黒田官兵衛が使い分けた二つの家紋について見てみましょう。
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家紋「藤巴」
黒田家の家紋は「藤巴」。
この家紋については官兵衛が有岡城幽閉になったときの逸話がありますが…。
俗説だった・・・藤巴にまつわるエピソード
1578年、信長に謀反を起こした荒木村重を説得するために有岡城へ乗り込んだ時、逆に官兵衛は囚われてしまいました。
その後、1年間の幽閉生活を余儀なくされます。
陽の当たらない暗い牢獄での毎日はさぞかしつらいものだったでしょう。
しかし、その獄中生活の中で窓から見える藤の花と葉の生命力に力づけられ、つらい牢獄生活を何とか持ちこたえます。
だからこそ牢から救出されたあとの官兵衛は家紋を決めるとき、迷わず藤巴を選んだのです。
大河ドラマでも牢の中の官兵衛と藤の印象的なシーンがありました。
しかし、残念ながら「牢獄の藤と家紋の関連性は特にない」ということが専門家からも指摘されています。
さて、その理由は?
藤巴紋の事実関係
実際のところは、黒田家が小寺家に仕官をしていたときに、官兵衛の父黒田職高が養子に入ったことで小寺性を名乗り、同時に藤巴紋を賜ったというのです。
小寺家の元々の家紋は「橘藤巴」でした。
しかし家臣としての遠慮があり、中央にあった橘の部分を除いた「藤巴」を家紋としました。
つまり、黒田家は「官兵衛が幽閉される以前から藤巴紋を使用していた」という事実があるのです。
小寺性を名乗っていた官兵衛は、主君の小寺政職が織田家から毛利家へと寝返る時まで藤巴紋を使用していたと考えられています。
家紋「白餅」または「黒餅」
黒田家は1578年に元主君であった小寺政職が信長や秀吉を裏切ったことで、小寺家から拝領した藤巴紋をそのまま使い続けるのが難しくなりました。
そして官兵衛は秀吉から一万石を拝領して初めて大名となった時に家紋を変更しました。
黒田家の表紋として
この時点で官兵衛はシンプルな円を描いた白餅紋を、黒田家の表紋(正式な家紋)とします。
複数の家紋を持つ家もあったので、その場合は一つを表紋として選んだのです。
「白餅」は「城持ち」に繋がるということで、当世の新興大名には好まれた紋でした。
「黒餅」と呼ばれることもあり、それは大名の「石持ち」
つまり「石高」に掛けた言い方で、白餅同様言葉の意味が好まれました。
「白餅」も「黒餅」も無地に丸を白く塗るか黒く塗るかの違いで、基本は同じと言えそうです。
半兵衛への恩
そしてこちらにも家紋にまつわるお話が残っています。
官兵衛が荒木村重に囚われた時、織田信長は官兵衛が荒木側に寝返ったのだと勘違いをして激昂。
官兵衛が忠誠の証しに差し出していた、人質の息子松寿丸を殺せと命令するのです。
しかし官兵衛と共に働いていた軍師竹中半兵衛は、彼が裏切ってはいないという確信のもとに、松寿丸を殺したことにして密かに匿います。
その後、官兵衛が救出されたときに、
信長は自分の勘違いにより殺めるところだった松寿丸の命が助かったこと、
官兵衛は死んだと思っていた息子が実は生きていたことを知り、
竹中半兵衛に深く感謝するのでした。
しかしその時すでに半兵衛は亡くなっており、官兵衛との再会はありませんでした。
そして官兵衛はその半兵衛への恩を感じて、竹中半兵衛の黒餅紋(または白餅紋)を黒田家の家紋にした。
というのです。
再び「藤巴」
その後も名家として続いた黒田家。
江戸から明治時代にかけて縁起の良い表紋として「白餅」を使いました。
小寺家の流れを汲む「藤巴」は裏紋でした。
しかし、明治になって藤巴紋を復活させます。
というのも、日の丸が日本の国旗となり、意匠の似た白餅紋が使いにくくなったからです。
また、小寺家の裏切りについてももう問題にされないほど昔の話しとなったからでした。
きょうのまとめ
武将の旗印ともなった家紋は、一家の存在意義を語る重要なものです。
黒田家の家紋が「藤巴」から「白餅」へ変わり、そして「藤巴」に戻ったのには歴史的経緯や意味があったというわけです。
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