統一中華王朝秦の時代末期。
反乱軍の中心的人物となった楚の武将、項羽。
その圧倒的強さで秦を滅ぼした彼は、自らを「西楚の覇王」と名乗りました。
項羽とは一体、どのような人物だったのでしょうか。
今回は、その生涯を功績やエピソードと共にご紹介していきます。
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項羽はどんな人?
- 出身地:中国 秦時代末期の楚
- 生年月日:紀元前232年
- 死亡年月日:紀元前202年(享年31歳)
- 秦時代末期、楚の武将。「西楚の覇王」
項羽 年表
紀元前(年齢)
232年(0歳)中国秦の時代末期、楚の国の将軍の家系に誕生。
209年(24歳)会稽に挙兵し秦の大軍に大勝する。
208年(25歳)劉邦と共に城陽城を落として秦軍を破る。
207年(26歳)楚軍の上将軍に任命される。「鉅鹿の戦い」で秦軍に大勝する。
206年(27歳)秦の兵約20万を生き埋めにする。秦の都咸陽郊外で「鴻門の会」を開く。秦王の一族を皆殺しにした後咸陽を焼き払う。自らを「西楚の覇王」と名乗る。
205年(28歳)斉を討伐し、降伏した兵を生き埋めにした。「楚漢戦争」開始。4月「彭城の戦い」で劉邦率いる漢軍に勝利する。
204年(29歳)「滎陽の戦い」
203年(30歳)人質にしていた劉邦の両親を解放し、劉邦と盟約を結ぶ。
202年(31歳)「垓下の戦い」で劉邦に敗れ自害する。
項羽の生涯
ここからは早速、項羽の生涯におけるその功績を一緒に見ていきましょう。
生い立ちと将軍の誕生
紀元前232年。
中国が秦によって統一された時代にあったその末期に項羽は誕生します。
ちなみに項羽の名前で知られていますが、正式には項籍が本名であり、羽は字になります。
項一族は代々楚の国の将軍を務める家系であり、項羽の祖父は秦に統一される前の楚で、最後の楚王と共に戦い戦死した項燕という将軍でした。
秦の始皇帝の死後、後続の支配者によるあまりの圧政ぶりに民衆の不満は溜まり、農民による一揆を皮切りに中華帝国の各地で反乱の機運が高まります。
その中で秦打倒の中心的勢力の一つを束ねていたのが項燕将軍の息子の一人、項梁であり、項羽の叔父にあたる人物でした。
項梁は王家の子孫を擁立して楚の国を再興すると、項羽はこの叔父によって副将軍格に任命されました。
その後、叔父が秦の名将によって討たれたことで、項羽は将軍の座に就くことになったのです。
西楚の覇王
紀元前209年、24歳の時に会稽に挙兵。
項羽はその圧倒的な強さによって秦に対する反乱軍の中核となります。
26歳の時には鉅鹿の戦いで秦軍の大軍に大勝を収めると、各国の将軍たちは次第に項羽に服従するようになっていきました。
紀元前206年、項羽は秦の兵や王族を皆殺しにした後、秦の都咸陽を焼き払い、楚の彭城を都に定めます。
そして自らを西楚の覇王と名乗ります。
しかし、その強引で容赦のない内政により、諸侯の指導者たちは次第に項羽に対する不満を高めていくことになりました。
中でも劉邦は、項羽と共に項梁の下で共に戦い、その後も実質的に咸陽を攻め落とした功労者であったにも関わらず左遷されることに。
さらに項羽は、叔父が擁立した楚の王を格上げした後、僻地へ移動させる途中で暗殺しているのです。
他にも数々の横暴でワンマンな体制を執ったことで、遂には項羽に対する諸侯の反乱軍が決起することになったのでした。
楚漢戦争
項羽率いる楚と、漢王劉邦が中心となった反乱軍との戦いは楚漢戦争と呼ばれています。
紀元前205年に起きた彭城の戦いでは、魏、趙との50万以上からなる連合軍を率いた劉邦が楚に挑みます。
しかし、項羽はこれをわずか3万の精鋭からなる兵と共に一蹴。
翌年の滎陽の戦いでも項羽が大勝し、その圧倒的な強さを見せつけます。
しかしその相変わらずのワンマンな体制は徐々に身内にすら疎まれるようになり、項羽の元からは次第に家臣たちが去っていきました。
さらに裏切りや戦場での食料調達の道が断たれるなど、様々な問題が足を引っ張ります。
項羽率いる楚は徐々に劣勢に立たされていったのです。
そして紀元前203年。
垓下の戦いでは、少数の兵と共に劉邦の軍を散々に打ち破るも最後は遂に項羽一人となります。
その際、敵の追手の中に同郷で親しい仲だったかつての友人を見つけた項羽は、彼に自身の首に懸けられた懸賞を与えると言い残して自ら命を絶ったのでした。
31歳という若さでした。
項羽にまつわるエピソードや伝説
ここでは、項羽にまつわる伝説的なエピソードをご紹介していきます。
若き日
若き日の項羽のエピソードに、彼があまり勉強熱心ではなかったことが挙げられます。
読み書きに関しては自分の名前が書ければそれで良し。
剣術に関しては、項羽にとって一個人と戦うことに意味を見出せなかったのです。
その代わりに兵法については学ぶ姿勢を見せ、早くも将軍としての頭角を現していましたが、大筋を理解した後は細部まで学ぼうとはしませんでした。
この辺りのエピソードは彼の、人の話を聞き入れず、自分のやり方を通そうとする性格を既に彷彿とさせるものです。
冷酷で横暴
敵や反逆者、そして自身にとって不都合な相手に対して容赦ない措置を取った項羽。
その冷酷な横暴さを物語るエピソードは数あります。
例えば、
・降伏した秦王だけでなく、一族も皆殺し
・制圧する拠点ごと、その地の住民までも皆殺し
そして先にもご紹介したように、僻地に避難させると見せかけて楚の王を暗殺したことは、劉邦が反旗を翻す大義名分にもつながりました。
こうして、その性格はやがて自身の首を絞めていくこととなったのです。
四面楚歌
四字熟語にある四面楚歌(周囲がすべて敵や反対者で、まったく孤立して、助けや味方がいないこと。また、そのさま。孤立無援。)という言葉。
皆さんも学校で習ったことがあるのではないでしょうか。
実はこの言葉、項羽にまつわるエピソードから誕生しているということをご存知でしたか。
項羽が最期の時を迎えることになった「垓下の戦い」の際、敵兵に追い詰められた項羽の状況から誕生したものと言われているのです。
悲惨な死後
最期は自ら命を絶った項羽。
しかしその身には莫大な懸賞金と土地が懸けられていたため、彼の遺体には途端に多くの漢軍兵が群がることに。
懸賞を巡る漢軍兵たちの烈しい同士討ちの末、項羽の遺体は5つに切り裂かれることになりました。
劉邦は、遺体をそれぞれ持ってきた将軍たちに対して褒賞を与える一方で、鎮魂の意味を込めて項羽を手厚く葬っています。
きょうのまとめ
今回は秦時代末期に活躍した楚の武将、項羽の生涯についてその功績やエピソードと共にご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
新たな学びは得られましたか。
最後に、項羽とはどのような人物だったのか簡単にまとめると
① 統一中華王朝秦の時代末期に活躍した楚の武将。
② 圧倒的武力で反乱軍の中心核となった。
③ 「西楚の覇王」となった後は、そのワンマンな政治体制により反乱が起こり最終的に漢軍に敗れる。
軍を率いるカリスマ性と、一個人としても十二分に強かった項羽。
しかしその強さが仇となり、驕りはやがて自らの破滅のシナリオを作り上げることになりました。
それでも烈しい戦乱の世に将軍として兵を率いて勝利に導き、最期まで自身の信念を曲げなかったその姿は、紛れもなく当時を語るうえでは外せない重要な人物と言えるのです。
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