孔子の弟子トップ10とそれぞれのエピソード

 

中国社会に根強く生きる儒教の創始者・孔子

「子」は敬称で、孔子とは「孔先生」という意味になります。

孔子には3000人の弟子がいたと言われています。

孔子と弟子たちのやりとりをまとめた「論語」は古代から現代まで人生の手本として愛されています。

天下の孔子から教えを受けたたくさんの弟子たち。どんな弟子がいたのでしょうか?

 

「孔門十哲」10人の優れた孔子の弟子たち

孔子の弟子3000人の中で、「身の六芸に通じる者、七十有二人」(「史記」)などと評された、才能あふれる者が70人余りいました。
(「仲尼弟子列伝」には「七十有七人」、「孔子家語」には「七十余人」とあります。)

そして、その70人余りの秀才たちの中でも、極めて優秀だったとされる者が10人います。

その10人を「孔門十哲」と言います。

「孔門十哲」は、孔門の四科と呼ばれる“徳行”“言語”“政事”“文学”にそれぞれ秀でていたとされ、「四科十哲」とも言われています。

それでは、そんな孔子の優れた弟子たち10人と、孔子とのエピソードをご紹介します。

顔回(がんかい)

顔回

出典:Wikipedia

顔回は、顔淵(がんえん)とも言いました。孔子より30歳年下です。

“徳行”に秀でていて、孔子の後継者とも目されていました。

地位や名誉を求めず、質素に暮らして、ひたすら孔子の教えを理解して実践しようとしていました。

孔子は「論語」の中で「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」と褒めています。

また、同門の秀才子貢は、「私は一を聞いて二を知る者、顔回は一を聞きて十を知る者」と称賛します

残念ながら早くに亡くなってしまった顔回。

孔子は、「天は吾を喪(ほろぼ)せり」と嘆いたそうです。

閔子騫(びんしけん)

姓は閔、名は損(そん)、子騫は字(あざな)です。魯の出身で孔子より15歳年下です。

“徳行”に秀でていました。

子騫は継母と腹違いの弟2人にひどい扱いを受けていました。

ある冬のこと、3人の子どものうち、継母が自分の生んだ2人にだけ綿入れを着せます。

父は怒って離縁しようとしますが、子騫は「母がいれば一子のみが凍え、母が去れば三子が凍える」といって継母を感涙させたそうです。

顔淵・冉伯牛と並んで「小聖人」と称えられています。

冉伯牛(ぜんはくぎゅう)

姓は冉、名は耕、伯牛は字です。“徳行”に秀でていました。生没年は不詳。

伯牛はハンセン病にかかってしまいます。

ハンセン病は人から忌み嫌われる病だったので、伯牛は配慮して家に閉じこもります。

そんな伯牛を孔子は見舞いますが、伯牛の気持ちを思い、家の中には入りませんでした。

窓から手を差し伸べて伯牛の手をとり

「この人が亡くなるのは天命でしかたのないことだ。それにしても、こんな立派な人がこのような悪疾に罹るとは・・・」

といって嘆き悲しみました。

仲弓(ちゅうきゅう)

“徳行”に秀でていました。生没年は不詳。

あまり出自がよくなかったようですが、仲弓の人格が優れていたため、孔子は「まだら牛の子でも、赤い毛並みが揃っていてその上角まで生えていたら、山や川の神々もこぞってその牛を求めるだろう」と励ましました。

政務にも秀でていた仲弓を孔子は「施政者の器がある」と評しています。

実際、仲弓は魯の大夫・季氏に抜擢されて仕えます。しかし、自分の理想が実現できないと悟って3か月で季氏から去りました。

仲弓は正しいと思ったら孔子にも物怖じせず反論する人でした。

子桑伯子という人を孔子が「細かいことにとらわれずゆとりがあって好感が持てる」というと仲弓は「おおざっぱに構えておおざっぱに政治を行うのはゆとりがありすぎる」と反論し、孔子は喜んだそうです。

ある人が「仲弓は人を思いやる仁の心はあるけれど、口下手で気の利いたことが言えない」と批判しました。

これに憤慨した孔子は

「口下手などどうでもいいことだ。口先だけがうまい人は最後に嫌われてしまう。仲弓に真の人徳をもっているかはまだわからないが、口下手でもまったく問題ない」

と猛反論しました。

宰我(さいが)

宰我は宰予(さいよ)ともいわれ、字は子我。生没年は不詳。

“言語”に秀でていました。宰我は弁舌がとてもたちましたが、実利主義者で徳には少し欠けていました。

「論語」で最も孔子から叱責されている弟子です。

宰我は喪礼が3年というのは長すぎるから1年くらいでちょうどいいと言い、
孔子から「お前は自分の親が死んで3年もたたないうちに米を食べて綿を着ても何とも思わないのか」と叱られますが、しれっと「何とも思いませんよ」と答えます。

ある日、だらだらと昼寝をしていた宰我に向かって孔子は
「朽さた木には雕刻ができず、土がばろばろになった土塀は上塗りがきかない」
とあきれたそうです。

宰我の言動にあきれていた孔子は
「わたしも昔は人の言うことだけを信じていたけれど、今ではその人の行動を観察するようにしている。これは宰我がきっかけだ」
と語りました。

孔子からはあきれられていた宰我ですが、斉の長官になっています。

田恒の反乱に加担し一族皆殺しにされた、という説がありますが、同名人物との混同かもしれず、真偽は不明です。

孔子が求めるような仁徳者ではなかったかもしれませんが、弁舌巧みで優秀な人だったのでしょうね。

子貢(しこう)

姓は端木(たんぼく)、名は賜(し)で、子貢は字です。孔子より31歳年下です。

“言語”に秀でていました。

魯に仕えて、各国をまわり外交で活躍しました。

「史記」には「子貢の一たび出づるや、魯存し、斉乱れ、呉破れ、晋を強にし越を覇とす」と書かれています。

また、商売で莫大な富を築いたそうで、孔子の経済的支援者とも言われています。

斉の景公が子貢の師である孔子は賢いのかと問うと、子貢は即座に「賢いです」と答えます。
景公が続けて「どのくらい賢いのか」と聞くと、子貢は「存じません」はと答えました。景公は「孔子は賢いというのに、そのくらい賢いかわからないという。それでいいのか」といぶかしみます。
そこで子貢は
「人は天が高いことを知っていますが、どれくらい高いのかはわかりません。わたしは孔子が賢いことを知っていますが、その賢さがどれくらいなのから知らないのです」
と孔子の賢さを天に例えました。

また、叔孫州仇(叔孫武叔)が「子貢は孔子より優れている。」と話したことを子服何(子服景伯)が子貢に伝えます。
子貢は

「わたしの家の塀は肩くらいなので、塀越しに小奇麗な様子が見えます。でも、孔子の家の塀は高すぎて、門から伺わないと素晴らしい家や召使の様子が分からないのです」

といって孔子の方が優れていることを見事に表現しました。

子貢と宰我の二人は弁舌に優れていた弟子と評されています。しかし宰我と違って、子貢は身の程をわきまえていたようですね。

冉有(ぜんゆう)

姓は冉、名は求、字は子有。孔子より29歳年下です。

“政事”に秀でていました。

孔子から政治の才能を認められて「大きな町や卿の家の長官としてとりしまることができる」と評されています。

魯の家臣・季孫に仕えていました。

政治手腕には秀でていて、季孫の思うことを実現するのは上手かったようです。

しかし、とても消極的で孔子から叱咤激励されています。

孔子は冉有に、「聞くままに斯れこれを行え」と強くアドバイスしました。

また、「自分に力が無いが故に、先生の道を学ぶことができません」と冉有が悩んでいると
「本当に力がなかったら進めるだけ進んでやめてしまうだろう。お前は自分の力を自分で見限っているだけだ」
と激励します。

冉有は積極的になってほしいという孔子の期待になかなか応えられませんでした。冉有が仕える季孫は十分お金持ちでしたが、民から税を取り続けていました。
冉有は徴税を実行しています。それを見た孔子は「冉有はわたしたちの仲間ではない。太鼓を打ち鳴らして攻めてもいいぞ」と弟子たちに言い放ったそうです。

子路(しろ)

姓は仲、名は由、子路は字です。季路と言われることもあります。孔子より9歳年下です。

“政事”に秀でていました。

武勇と決断力に富んでいました。

直情径行っぽいところがあったようで、孔子に「ガサツだ、野蛮だ」と咎められています。

そこで孔子に「まわりくどい」と言い返して憎まれ口をたたきあうなど、孔子とは他の弟子たちよりも親しく付き合っていたようです。

孔子は子路を「仁を備えているかはわからないが、国で軍事を取り仕切ることができる」と評しています。
そして
「子路は果断だから、政治も難なくこなす」
「ほんの一言訴えを聞いただけで判決を下せるのは子路だけ」
と褒めています。

子路は衛国で任官するのですが、その衛で反乱がおこります。
孔子は「子路は死んでしまうだろう」と不吉な予言をしました。
そして子路は生きたまま肉を少しずつ剥いでいくという凌遅刑(りょうちけい)に処され、遺体は塩漬けにしてさらされました。
孔子は「もう塩漬けの肉は食べることができない」といって家の塩漬け肉を捨てて嘆き悲しみました。

もともとは町の暴れん坊で、孔子の礼に感動して弟子になった子路。ずけずけ物を言う子路を孔子は可愛がっていたのでしょう。

子游(しゆう)

姓は言,名は偃 (えん) 、子游は字です。孔子より45歳年下です。

“文学”に秀でていました。

孔子の推挙で、魯の武城の代官になり、善政を行ないました。

礼楽(礼と音楽)を重んじます。

そして礼楽の形式的なことよりも精神的なことを重視して、政治を刷新しました。

才能あふれるとされた、孔子の70余人の弟子たちのなかで、唯一南方地方の出身だった子游。

のちに帰郷して江南に儒学を広めたため、「南方夫子」と呼ばれました。

子夏(しか)

姓は卜(ぼく)、名は商、子夏は字です。

“文学”に秀でていました。

まじめで消極的な性格だったようで、「師(子張)や過ぎたり、商(子夏)や及ばず」と評しています。

これは「過ぎたるは及ばざるがごとし」の元になります。

孔子によって編集された「詩経」。

子夏は「詩経」にあった「巧笑倩(せん)たり、美目盼(はん)たり、素以て絢(らん)を為す(笑顔の口元が可愛く、目元が涼しい女性がおしろいをする)」の意味を孔子に問います。

孔子は「絵の仕上げにおしろいを塗るようなものだ」と答えます。

そして子夏は「相手への思いを礼で表現して仕上げるということですか」と言って、孔子を感激させました。

孔子は自分でも思いつかなかった新しい解釈をしてくれた子夏を
「わたしを啓発してくれるのは子夏だ。ようやく詩をともに語るにふさわしい相手を得た」
といって大絶賛します。

また、他の弟子が孔子から聞いたことばがよく理解できなかった時は、子夏が解説してあげていたそうです。

自分の息子が死んだ時は、悲しみのあまり泣きすぎて失明しまったとか。

同じ孔子の弟子の曾子(そうし)が慰めにきてくれてやっと立ち直りました。

 

いろいろなキャラクターを持つ孔子の弟子たち

孔子の弟子たちのうち最も優れていたとされる10人をご紹介しました。

個性的なキャラクターで、それぞれの生き様を見せた「孔門十哲」たち。

孔子に褒められるだけでなく、その性質や行いをけなされている人もいて、親近感が湧いてきます。

「孔門十哲」以外の才能あふれる弟子もたくさんいたようですし、調べてみればもっと濃いキャラクターの弟子が見つかるのではないでしょうか。

 

きょうのまとめ

孔子の弟子3000人のうち、特に優れていた「孔門十哲」の10人をご紹介しました。

また、その弟子たちと孔子とのエピソードも見てきました。

簡単にまとめると、次のようになります。

① 孔子の弟子3000人のうち最も優れていた10人の弟子を「孔門十哲」という

②「孔門十哲」の生き様はいろいろで、それぞれが個性的なキャラクターをしている

③ 孔子と「孔門十哲」のエピソードは多彩

孔子と弟子たちが残したエピソードは、自分を振り返るいい手本にもなりますね。

 










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