「ろくろ首」「雪女」「耳なし芳一」。
日本に古くから伝わるこれらの怪談を書いたのが、イギリス人男性だということを知っていますか?
その名は小泉八雲。
本名はラフカディオ・ハーンといい、晩年に日本へ帰化したことで、その名を改めています。
日本で定番中の定番であるこれらの怪談の作者がまさかのイギリス人で、しかも日本の名前をもっている…。
これってどういうことなのか、すごく気になりませんか?
小泉八雲とは、いったいどんな人物だったのか。
その生涯を辿ってみると、最後に日本へ辿り着いたことにも納得させられる、不思議ないきさつがありました。
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小泉八雲はどんな人?
- 出身地:旧イギリス領イオニア諸島レフカダ島
- 生年月日:1850年6月27日
- 死亡年月日:1904年9月26日(享年54歳)
- ヨーロッパからアメリカ、日本とさまざまな地域に移り住んだ記者・作家。多民族への理解を示し、晩年は日本に帰化した。日本の文化・民間伝承を海外に広く伝えた功績をもつ。
小泉八雲 年表
西暦(年齢)
1850年(1歳)旧イギリス領レフカダ島にて、イギリスの軍医を務めていたアイルランド人の父チャールズ・ブッシュ・ハーンとギリシャ人の母ローザ・カシマティの次男となして生まれる。
1852年(2歳)父の故郷であるアイルランド・ダブリンに移住する。
1854年(4歳)母ローザが精神病を患ったことをきっかけに帰国し、両親が離婚。以後、父方の大叔母サラ・ブレナンに養育される。
1861~66年(11~16歳)フランスの教会学校、イギリスのカトリック系学校セント・カスバート・カレッジなどで学ぶ。16歳のころ、友人とクリケットをしている最中の事故で左目を失明。
1867年(17歳)養母のサラ・ブレナンが投資に失敗して破産。大学中退を余儀なくされる。
1869年(19歳)移民船を乗り継ぎ、ニューヨークへ。親戚を頼って訪れたオハイオ州シンシナティの印刷屋にて働き始める。
1874年(24歳)記者として活動していたところ、シンシナティ・エンクワイアラー社のジョン・コリカルに文才を見出され、同社に入社。以後多数の出版社を渡り歩き、雑誌の企画編集に携わる。
1885年(35歳)ニューオーリンズで買い刺されていた万国博覧会に記者として駆り出される。日本館の展示品に触れたこと、日本政府に派遣された服部一三との出会いを通して、日本への興味を募らせる。
1890年(40歳)出版社・ハーパーの特派員として来日。島根県尋常中学校に英語教師として務める。出雲大社にて、外国人では初めて昇殿を許される。
1891年(41歳)尋常中学校の教頭・西田千太郎の紹介で、以後妻となる小泉セツと知り合う。
1894年(44歳)熊本の第五高等中学校へ赴任。同年、神戸クロニクル社からオファーを受け、神戸に転居する。
1896年(46歳)日本へ帰化し、本名を小泉八雲に改名。東京帝国大学から英文科講師の辞令が出され、上京する。このころから日本の怪談やおとぎ話を多数出版し始める。
1904年(54歳)早稲田大学に講師として招かれる。代表作『怪談』や日本人の精神性を探求した著書『日本―ひとつの解明』を発表。9月26日、心臓発作によって他界する。
小泉八雲の生涯
ここからは小泉八雲の生涯にまつわるエピソードを詳細に辿っていきましょう!
他民族を受け入れる精神性が養われた幼少期
1850年、小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーンは、イギリスの軍医をしていたアイルランド人の父・チャールズとギリシャ人の母ローザの次男として、旧イギリス領イオニア諸島のレフカダ島にて誕生します。
「パトリック」というファーストネームは、キリスト教の聖人・聖パトリックにちなむもの。
しかし八雲自身がキリスト教を毛嫌いしていたため、生涯で名乗ることはほとんどありませんでした。
ゆえに「ラフカディオ」をファーストネームと勘違いしている人も多いようですね。
母のローザはギリシャ人ですが、家系にアラブ人がいたことから、八雲は自分に東洋人の血が流れているといい、そのことが日本文化の理解につながったと話しています。
もっともその母とは、彼女が精神病を患ったことをきっかけに、4歳のころには別れているのですが…。
以後、アイルランド・ダブリンにて八雲の養育を担ったのが父方の大叔母サラ・ブレナンで、八雲のキリスト教嫌いは、彼女の厳格なキリスト教教育が原因だといわれています。
キリスト教なじみのある西洋人は、教典をもたない日本の神道文化を不思議に思う人が少なくありません。
一方で八雲は幼少からキリスト教に疑念を抱いていたことが、その理解にもつながったのですね。
また実際に八雲の世話をしたのは、大叔母に雇われていた乳母のキャサリンで、彼女の影響も八雲の人格形成を語る上で欠かせません。
キャサリンはアイルランドでも民話の伝承文化が盛んなコナハト地方の出身。
彼女からさまざまな民話を聞かされながら育ったことが、八雲の民間伝承への興味を育てたといわれているのです。
16歳のころに左目を失明…!?
八雲は16歳のころ、学友とクリケットに勤しんでいるところ、左目にボールがぶつかって失明してしまいます。
以降、白濁した左目は八雲のコンプレックスとなり、彼を写した写真は顔の右側だけを見せたものか、手で覆うようにして左目を隠したものが大半となりました。
とんだ災難ではありますが、この事故も異なる特徴の人種を受け入れる八雲の精神性を育んでいった一因とされています。
アメリカで記者として台頭
少年期の八雲はそれぞれフランス・イギリスのキリスト教系学校で学びますが、17歳のころ、大叔母のサラが投資に失敗し、破産したことをきっかけに中退を余儀なくされます。
こうして八雲は放浪の身となり、親の敷いたレールというものを一切失ってしまいました。
しかし彼はこの逆境から、新たな地・アメリカに活路を見出します。
19歳にして単身、移民船に乗り込みニューヨークに上陸、親戚を頼ってオハイオ州シンシナティへ。
この地で文才を見出された八雲は、20~30代にかけ、記者として多数の通信社で活躍していくのです。
養母の後ろ盾を失った逆境をバネにしてしまう精神力、10代にしてヨーロッパからアメリカへの大移動に踏み切ってしまう行動力には感服させられます。
また少年期に多民族への理解を身につけた八雲は、このころ異人種の妻・マティと結婚(すぐに別れてしまうのですが…)。
実はこれが州法違反で最初の通信社・エンクワイアラーを解雇されてしまいます。
ただそれでも八雲は記者として引く手あまたで、次の通信社への就職がすぐ決まりました。
シンシナティを離れてニューオーリンズへ引っ越した際にも、すぐに地方の通信社へ就職が決まっています。
やはり当時からその文才には類稀なものがあったのですね。
ニューオーリンズのクレオール文化に傾倒
20代後半でニューオーリンズへ引っ越した八雲は、その地に根付いたクレオール文化の魅力にどっぷりとはまります。
クレオール文化は、アフリカ系移民とヨーロッパの風習が融合したアメリカならではの文化。
この期間に八雲は
・クレオールのことわざ辞典
などを刊行しており、民俗学者としての傾向を一気に強めていくことになります。
アフリカ由来のヴードゥー教研究にも、熱心に取り組んでいたようですね。
日本への興味
八雲の日本への興味が決定づけられたのは、彼が35歳のころのこと、1885年に開催されたニューオーリンズ万博においてでした。
この万博で日本展を観覧した八雲は、日本文化の魅力に一気に引き込まれていくのです。
万博では文部官僚の服部一三と知り合っており、彼から懇切丁寧に案内を受けたこともその興味を手伝ったといえるでしょう。
ここから八雲は
・英訳『古事記』
などを愛読し、日本への想いを募らせていきます。
なにより決め手となったのは、実際に日本を訪れた女性記者エリザベス・ビスラントからその美しさを伝え聞いたことでした。
これらの経験を通して八雲は1890年、40歳にして日本行きを決意します。
またこのころ、西インド諸島マルティニーク島で2年を過ごした経緯もあり、著書『仏領西インド諸島の2年間』を出版。
実際に各地に赴くことで、多民族への理解も極まる様子を見せています。
いざ日本へ!
1890年のこと、八雲はアメリカの出版社・ハーパーの特派員として日本へとやってきます。
しかしこれは足掛かりに過ぎず、日本へ辿り着くとすぐさま契約を解除。
その後、服部一三や英訳『古事記』の訳者バジル・ホール・チェンバレンの引き立てで、島根尋常中学校に英語講師として赴任することに。
こうして八雲にとってかけがえのない地となる出雲へやってくることとなります。
英訳『古事記』には「出雲神話マップ」が付録として付けられていたほど、出雲は日本神話の聖地として有名な場所。
この地に八雲が赴くことになったことには、どこか運命的なものを感じますね。
神話の聖地・出雲での暮らし
出雲へやってきた八雲は出雲大社の本殿へも外国人として初めて招かれています。
八雲は出雲大社へ以後何度となく訪れており、その経験をもって神道への理解を深めていきました。
八雲は出雲大社以外にも、出雲のあらゆる神社に足を運んでおり、イギリスのピットリバース博物館館長宛には、80種以上の護符が届けられたというから驚かされます。
また出雲で暮らしたこの時期に、八雲は尋常中学校教頭・西田千太郎の紹介で松江士族の女性・小泉セツと知り合っており、以後生活を共にしていきます。
セツは八雲のために民間伝承を収集し、口承で多数の民話を伝えていきました。
セツから語られたそれらの民話を外国人向けに再話したものが、八雲が晩年に記した代表作とされる『怪談』『骨董』などの話集なのです。
すっかり日本の文化になじんでいった八雲は、セツとの関係もあり、1896年、46歳のころに帰化。
こうして日本人・小泉八雲を名乗るにいたりました。
出雲はそれこそ、八雲の日本での生活を語る上で欠かせない場所ですが、彼はこのほかにも熊本・神戸・東京へと転じ、教師を務めるかたわら、各地で日本人の精神性の真理に迫っていきます。
その集大成が、晩年1904年に刊行された『日本―ひとつの解明』。
本書はマッカーサーの秘書ボナー・フェラーズの愛読書ともされており、戦後の日本統治を円滑に進める足掛かりにもなりました。
こう聞かされると、一気に影響力の大きさに実感が湧いてきますね。
「八雲」という名前の意味は?
小泉八雲が日本に帰化する際、選んだ「八雲」という名前。
これは出雲に古くから伝わる和歌の詩的表現で、出雲の地名を表したものです。
神話の聖地・出雲はやはり、それほどに八雲にとって意義深い場所だったのです。
自分の名前にしてしまうほど、日本を愛した外国人がいたという事実は、現代を生きる私たちとしても誇らしいことですね。
きょうのまとめ
日本に伝わる数多くの怪談や、日本人の精神性を海外へと伝えた小泉八雲。
その生涯を辿ると、自身の生まれに縛られず、多民族へ理解を示す素養がいたるところで養われていました。
現代で日本文化が世界に広く受け入れられていることに、八雲が欠かせない人物であることは疑いようもありません。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 小泉八雲は幼少期の厳格なキリスト教教育への疑問、左目の失明などを通して、身体的・精神的に異なる多民族への理解を深めていった。
② 養母の破産で行く宛を失った八雲は、単身アメリカへ渡り、記者として成功してみせた。
③ 日本への興味を募らせた八雲は来日し、日本文化や民間伝承を探求。著書を通してその魅力を世界へと伝えた。
その生涯はまさに、あらゆる民族への探求にすべてをかけた人生でした。
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