明治は文学の発展がとくに目覚ましい時代でした。
夏目漱石、森鴎外、尾崎紅葉…教科書などで目にする名前も多く見られる当時の作家たちは、まさに現代文学の基礎を築いた存在だといえます。
そんな作家の中において、文語体にこだわった作風や、古典の飽くなき研究で注目されたのが
幸田露伴です。
作品や写真を見ると、ちょっぴりお堅いイメージの露伴。
しかしその人物像を辿ると実は破天荒だったり、学校を中退していたりと、意外な一面を垣間見ることもできます。
幸田露伴はいったいどんな人物だったのか…今回はその生涯に迫っていきましょう。
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幸田露伴はどんな人?
- 出身地:武蔵国江戸(現在の東京)
- 生年月日:1867年8月22日
- 死亡年月日:1947年7月30日(享年79歳)
- 明治の世において、紅露時代と呼ばれる文学界の一時代を築いた小説家。研究熱心な姿勢から、自身の作品のみならず、他作品の批評も多大な評価を受ける。
幸田露伴 年表
西暦(年齢)
1867年(1歳) 武蔵国江戸にて、征夷大将軍直属の武士であった父・幸田利三の四男として生まれる。幼少時は病弱なことと、上野戦争によって引っ越しを繰り返すなどで苦労した。
1875年(8歳)塾の講師だった関千代の勧めで東京師範学校付属小学校に入学。
1878年(11歳)東京府第一中学校に入学するも、金銭的な理由で中退。このころから草双紙と呼ばれる当時の小説や、読本を愛読し始める。
1881年(14歳)東京英学校に入学するが、またしても中退。
1883年(16歳)国立電信修技学校に給費生(奨学金制度のようなもの)として入学。卒業後は電信技師として北海道余市に赴任する。
1887年(19歳)坪内逍遥の作品に出会ったことで文学への熱が芽生え、職を放棄して東京へ戻る。帰京後は父の営む紙店・愛々堂で働いた。
1889年(21歳)『露団々』『風流仏』を発表し、小説家・山田美妙に絶賛される。その後も『五重塔』など、作品を重ね、文学界での地位を確立。
1894~1901年(26~33歳) 腸チフスを患って生死をさまよう、結婚など岐路に立たされる中、『ひげ男』『新羽衣物語』『椀久物語』『一国の首都』『水の東京』などを手掛ける。
1904年(36歳)このころから『平将門』『頼朝』などの史伝に注力。同時に古典の批評にも着手していく。
1908年(40歳)旧友の狩野亨吉に促され、京都帝国大学文科大学にて国文学講師となる。しかし職が肌に合わなかったこと、妻の病気などを理由にすぐに退職している。
1911年(43歳)文学博士の学位を授与される。
1919年(51歳)『幽情記』や『運命』など、中国の古典に関連した作品を発表。また当時進んでいなかった中国の宗教の研究にも力を入れ、さまざまな文学者の注目を浴びた。
1937年(69歳)第一回文化勲章を授与。帝国芸術院会員になる。
1947年(79歳)肺炎に狭心症を併発し、死没。
幸田露伴の生涯
病弱で環境にも恵まれなかった幼少期
1867年、武蔵国江戸(現在の東京)にて露伴は生まれました。
病弱で生死をさまようようなこともあり、また旧幕府と新政府間で行われた上野戦争の影響で浅草・下谷・神田と住居を転々とするなど、幼少時は苦労が絶えなかった様子。
8歳のころには、東京師範学校付属小学校へ入学。
その後東京府第一中学へ入学しますが、金銭的な事情で中退…このころの露伴はことごとく環境に恵まれません。
14歳で入学した東京英学校(現在の青山学院大学)にしてもまた中退。
ただしこの時代であっても、学歴は能力とイコールではありません。
学校へこそ通わなかった露伴ですが、自ら東京府図書館に入り浸って読書に励み、漢学や漢詩に関しても学び始めていたといいます。
そして16歳のころには給費生(今でいう奨学生)として、国立の電信修技学校に入学。
卒業後は電信技師として職を得て、北海道余市へ移りました。
電信技師というのは、いうなれば電話をその人がかけたい相手に繋ぐ役割を担う職業です。
本を読むのが好きで文学に傾倒していたといっても、学歴や職歴を見ると、とても小説家になるとは考えられない内容ですね。
文学に目覚めた青年期…瞬く間に頭角を現す
晴れて電信技師の職を手にし、堅実な人生を歩んでいくかに思えた露伴でしたが、19歳のころ、シェイクスピア全集の翻訳などで知られる坪内逍遥の作品に出会って衝撃を受けると、なんと仕事を放棄して東京へ帰ってきてしまうのです!
若いころはそのぐらいの勢いが大切…ともいえますが、何せ学歴などを考えると、急展開も急展開。
小説家を目指そうという彼の夢を「そんな無謀な…」と捉えていた人も多かったはずです。
しかしそこから2年後に発表した『露団々』『風流仏』などが評価され、露伴は瞬く間に作家としての頭角を現します。
その後も
・『ひげ男』
・『新羽衣物語』
・『一国の首都』
など、多岐に渡る作品を発表。
同時期に活躍していた尾崎紅葉と対をなす存在とされ、このころの文学界は「紅露時代」などと呼ばれています。
長らく思い通りにいかなかった露伴の人生が、ここに来て一気に花開いた印象ですね。
流れるような文章で情景を描写するような紅葉に対し、露伴の作品は文語体という手法で書かれ、少々難解なイメージがあります。
しかし物語の内容は『風流仏』のように悲恋を描いたもの、『五重塔』のようにへこたれない心をもった主人公が活躍するものなど、実は若い人でも惹かれるような話も多いのです。
晩年は文学界の重鎮として「大露伴」と呼ばれるように
晩年と呼ぶには少し早すぎるかもしれませんが、1904年あたり、30代後半からの露伴は、古典の批評や、中国文学の研究に力を入れていきます。
そのかたわら、京都帝国大学文科大学で学長を務めていた友人・狩野亨吉の勧めで国文学講師も務めますが、これに関しては1年足らずで辞めてしまいました。
ちなみに講師としての評判は非常によかったものの、露伴は体が大きく、黒板を覆ってしまうので、生徒はノートが取れなかったという笑い話も…。
これに加えて話も上手ではなかったといいますから、生徒たちは授業のわかりやすさというより、露伴の人となりを肌で感じていたのでしょう。
1911年には文学博士の学位を授与され、文学界のレジェンドと呼べる存在に。
また1937年には第一回文化勲章を授与されています。
自身の作品を発表しながらも、中国古典の研究に尽力した露伴は、当時の作家でも漢詩・漢語などの知識は隋一だったとのこと。
また他作品に対する批評も、多分に蓄積された知識の甲斐あって、説得力があると評価されていました。
その知識量から、しばしば「大露伴」などというニックネームで呼ばれることも。
電信技師にしても大学の講師にしても長続きしなかった露伴ですが、それだけ自分の好きな分野に没頭したからこそ、文学界のトップに立てたともいえますね。
きょうのまとめ
幸田露伴の人生はいかにも破天荒で、彼は自分の興味に正直な情熱家だったことが垣間見えます。
文学に目覚めて間もなく頭角を現した露伴を押し上げたのは、「これだ」と思い込んだら他には目もくれない、圧倒的な行動力ではないでしょうか。逸話を辿ると、難しく見えるその作品にも俄然興味が湧いてきます。
最後に今回の内容を簡単にまとめておきましょう。
① 金銭的な理由で学校にも通えず、作家になるなど想像もできない生い立ちをもっている
② 坪内逍遥の作品に衝撃を受けて文学に目覚めると、仕事も放棄して帰京した
③ 晩年は古典の批評や中国文学の研究に傾倒。文学界隋一の知識人となっていた
露伴の没年79歳というのは、同時期に活躍した作家の中ではかなりの長生きでした。
病弱に生まれてきた彼がこの歳まで生きたわけです。好きなことに一点集中したその人生は、さぞ充実したものだったのでしょう。
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