小早川秀秋が用いた家紋は「丸に違い鎌紋」です。
一方、養父の小早川隆景が用いたのは「左三つ巴」でした。
なぜ、彼はそれを「丸に違い鎌紋」にしたのでしょうか。
また、秀秋は豊臣秀吉から「桐紋」を与えられています。
にもかかわらず、別の紋を用いました。
「丸に違い鎌紋」に込められた意味について、見ていきます。
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「丸に違い鎌紋」 に込められた意味とは?
五穀豊穣
鎌というのは、もともと草刈りや刈り取りに使う農作業の道具です。
形状は地域によりバラエティに富み、主に麦や稲の収穫に使われていました。
秀秋は領国経営にも力を注いでいたと言われていて、年貢を確保するための農業政策として検地を行い、寺社領を明確にしました。
年貢を確保するには農業政策からだったのでしょう。
このあたりは太閤秀吉の一族らしいのかもしれません。
(秀吉の「太閤検地」は有名です)
やはりこの当時の大名の主な収入源は領民からの年貢であり、豊作になれば年貢も多く取れ自身も潤います。
紋に鎌を用いているのは五穀豊穣を願ってのことでしょう。
武運長久
鎌には武具のイメージもあり、鋭利な刃が付いており、戦いを想起させますね。
秀秋は朝鮮出兵に総大将として従軍しています。
ある時、現地で加藤清正軍が窮地に立たされました。
秀秋はわずかな手勢で加藤清正軍を救援し、清正は窮地を脱することができました。
秀秋は勇猛果敢な武将だったのかもしれませんが、この行為は秀吉に厳しく咎められます。
帰国後の彼を待っていたのは厳しい減封処分でした。
総大将が落命したら軍が動かせなくなります。
そんなリスクを平気で犯したのを秀吉は許せなかったのです。
「総大将の意味を考えよ」
ということでしょう。
これには秀吉にも一理ありますね。
ただ、秀秋が若い頃から戦いに身を置いていたことは事実です。
家紋に用いられた鎌にはこんな意味もあったでしょう。
「武運長久でありますように、戦いに勝てますように」
きょうのまとめ
小早川秀秋が用いた家紋について簡単にまとめると
② 当時の主な収入源であった年貢の確保のため、五穀豊穣を願った
③ 常に戦いに身をおき、朝鮮出兵もあったため、武運長久であることを願った
戦勝祈願、領国の繁栄には年貢が欠かせません。
また、この当時は朝鮮出兵という戦いがありました。
日本国内での大きな戦いはもうありませんでしたが、海外で日本は戦っていたのです。
いつ死ぬかもわからない恐怖と秀秋も対峙していたことでしょう。
戦いに勝ち続けて、立身出世したい思いは彼にもあったはずです。
こうした思いを秀秋は「丸に違い鎌紋」に託したと考えられます。
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