伊東祐親は、生涯平氏に忠義を尽くしたことで知られています。
祐親とはどんな人物だったのか、また源頼朝との関わりについてご紹介いたします。
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伊東祐親はどんな人?
- 出身地:伊豆国
- 生年月日:不明
- 死亡年月日:1182年2月15日(享年不明)
- 平氏方の豪族として平清盛からの信頼が厚く、伊東での源頼朝の監視役となった。石橋山の戦いで頼朝軍を撃破したが、富士川の戦いの後捕えられ、のち自害した
伊東祐親年表
西暦 *生年不詳のため年齢は不明
1159年 平治の乱後伊豆に配流された源頼朝の監視を任される
1175年 頼朝と娘八重姫の子・千鶴丸を殺害の上、頼朝殺害を企むが頼朝は北条時政の館に匿われる
1176年 所領争いが原因で伊東祐継によって嫡男・河津祐泰が殺害される
1180年
8月、石橋山の戦いで大庭景親らと協力して源頼朝軍を撃破
10月、富士川の戦いで源頼朝軍に敗戦後に捕えられ、助命されたがのち自害する
伊東祐親の生涯
伊東祐親の平氏に忠誠を尽くし続けた生涯です。
跡目と所領争い
伊東祐親の家系は、藤原鎌足から続く藤原南家の流れを汲む工藤氏の一族です。
工藤氏の6代目で伊東氏の祖となる工藤祐隆は、祐親の祖父。
祐隆の嫡子であり、祐親の父・祐家が早世すると、祐隆は後妻の連れ子を養子にしました。
養子となった工藤祐継は本領の伊東荘・宇佐美荘を与えられ、
嫡孫の伊東祐親は次男扱いで河津荘が与えられたのです。
祐親は、直系子孫の自分が優遇されなかったことが不満でした。
工藤祐隆の死後、家督を継いだのは工藤祐継でしたが、43歳で死亡します。
そこで伊東祐親は、没した祐継の子たち工藤祐経・宇佐美祐茂を後見しました。
のちに祐親は自分の娘を工藤祐経に娶らせました。
さらに祐経を平重盛に仕えさせ、彼が在京している間に伊東荘を取り上げ、祐経の妻である自分の娘を別人に嫁がせてしまっています。
流罪だった源頼朝の監視役・祐親
伊東祐親は、平清盛から厚く信頼されていました。
1159年の平治の乱に敗れて流罪となった源頼朝が伊東にいた頃の監視役を命じられていたとされています。
ところが、伊東祐親が大番役で京に滞在している間、源頼朝と密会していた祐親の3女・八重姫は、頼朝の子である千鶴丸を生みました。
京から伊東に戻った祐親はそれを知り激怒。
軍記物『曽我物語』によれば、
「源氏の流人を婿にしたと平氏から咎められるのを恐れた祐親が、3歳の千鶴丸を川に沈めて殺害した」
ということです。
さらに祐親は源頼朝の暗殺をも企みます。
しかし頼朝の乳母・比企尼の3女を妻にしていた
祐親の次男・伊東祐清が、親交のあった頼朝に暗殺計画を知らせたので彼の命は助かっています。
のち頼朝は伊東祐親の娘の嫁ぎ先である北条時政の館に匿われ、北条政子と恋仲になって1178年に娘の大姫が誕生しています。
源頼朝の挙兵と祐親の平家への忠誠
1180年8月、源頼朝が挙兵。
この時、伊東祐親の一族つまり工藤一族の内部は、源頼朝側と平家側に分れて戦うことになりました。
平家への忠誠心の強い伊東祐親は平家方である大庭景親の軍勢に加わります。
しかし、
・伊東祐清(祐親の次男)
・三浦義澄(娘婿)
・宇佐美祐茂(工藤祐継の子)
・土肥実平(妻の実家に当たる中村党)
・工藤茂光
・北条時政
・岡崎義実
らは、源頼朝に協力。
8月の石橋山の戦いでは、伊東祐親ら平家軍が頼朝軍を敗走させました。
その後、頼朝が鎌倉を制圧し、関東武者のほとんどが源頼朝に従うようになった頃も、祐親は大庭景親らと共に平維盛の軍に加わっていました。
その頃には次男・伊東祐清も父に従って平家側についていたようです。
しかし祐親・祐清父子は、10月の富士川の戦いで伊豆から船で平維盛軍に合流する途中で源氏に捕縛されてしまいます。
その後1182年の北条政子の懐妊が幸いして、三浦義澄の嘆願が聞き届けられ、祐親は恩赦されています。
源平合戦では、源氏側に付くことを打診されたとも言われますが、祐親は応じませんでした。
平氏への忠誠を尽くすため、また源頼朝と八重姫の子を殺害したことを恥じたため、1182年2月15日に三浦義澄邸にて自刃。
息子の祐清については
・頼朝に死を願って殺された
など諸説あります。
伊東祐親と曾我兄弟の仇討ちの関係
日本三大仇討ちの一つ「曾我兄弟の仇討ち」をご存知でしょうか。
曾我祐成と曾我時致の兄弟が、源頼朝主宰の富士の巻狩りという狩猟の催しの際、父親の仇・工藤祐経を討った事件です。
工藤祐経とは、伊東祐親と家督について因縁のあった人物です。
伊東祐親の工藤祐経への怨み
早くに亡くなった父祐家の嫡男だったにも関わらず、本領を継ぐことができずにいた伊東祐親は、祖父・工藤祐隆の養子となって家督を継いだ工藤祐継を怨みます。
祐継の死後、祐親は祐継の息子・工藤祐経に自分の娘を娶らせ、さらに京の平重盛に仕えさせた上、祐経が在京している間に本領の伊東荘を奪い取ったのです。
また、祐経の妻だった祐親の娘・万劫御前も、土肥遠平に再嫁させています。
のち横領に気づいた工藤祐経の訴えも祐親は根回しをして握り潰してしまいました。
祐経の祐親への報復から仇討ちへ
1176年10月、今度は工藤祐経が鷹狩りに出た先での伊東祐親への襲撃を計画。
結果、祐親の代わりに祐親の嫡男・河津祐泰を殺害しました。
殺害された河津祐泰の妻・満江御前は2人の幼い息子たちを連れて曾我祐信と再婚。
この2人が曽我祐成・曽我時致です。
そして機会を窺っていた兄弟は1193年、源頼朝が催した「富士の巻狩り」と呼ばれた狩猟の催しで、実父の仇・工藤祐経を討ち果たす「曾我兄弟の仇討ち」を実行したのです。
これが武士としての模範として知られた「曾我兄弟の仇討ち」の経緯です。
この有名な仇討ちも元はといえば、伊東祐親と工藤祐経との間の家督問題から始まったものなのです。
伊東祐親の墓所
1182年に三浦義澄の屋敷で自害したとされる伊東祐親の墓所は、静岡県伊東市大原町にあります。
祐親の屋敷跡と言われ、彼の銅像もある物見塚公園から徒歩約5分ほどの場所です。
安山岩で作られた五輪塔の墓は、高台から伊東家菩提寺の東林寺を見下ろすロケーションに建っており、伊東市指定史跡となっています。
<伊東祐親の墓: 静岡県伊東市111>
きょうのまとめ
伊東祐親とは
① 源頼朝の伊豆国流罪の伊東での監視役を務め 生涯平家方に忠誠を尽くした伊豆の忠臣
② 富士川の戦いで捕えられ助命がかなったにも関わらず自害した武将
③ 同族の中で世襲を争い「曽我兄弟の仇討ち」の遠因を作った人物
でした。
伊東祐親の娘と源頼朝との間に生まれたは男児・千鶴丸は、平氏の怒りを恐れた祐親によってたった3歳で殺害されてしまいました。
そのことは祐親自身の心にも自責の念の暗い影を落としていたことでしょう。
そして、もし千鶴丸が殺されずに祐親が孫の父親である頼朝を援助していたなら、祐親の運命は大きく変わっていたはずです。
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