明治15年(1882年)4月6日、
板垣退助が暴漢に刺されるという事件が発生しました。
そのとき、板垣が叫んだとされる「板垣死すとも自由は死せず」
という言葉はとても有名ですよね。
そこで今回は、この事件とその犯人について簡単にご紹介していきます。
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板垣退助暗殺未遂事件
当時、自由党の総理を務めていた板垣退助。
党の支持基盤を広げるため、全国で遊説を行っていました。
事件の舞台となったのは、岐阜の金華山の山麓にある中教院という場所です。
板垣はそこで2時間にわたる演説を行い、懇親会の会場から宿泊先へと向かう途中、短刀を持った男に襲われました。
犯人と揉みあいになった板垣は、胸や手に傷を負います。
そのとき負傷した板垣の診察にあたったのが、後に台湾総督府民政長官や満鉄初代総裁となる後藤新平でした。
出血は激しかったようですが、板垣は一命を取り留めます。
そして
という言葉のおかげもあって、板垣は自由民権運動のカリスマへとなっていったのです。
犯人・相原尚褧について
小学校の先生だった
このとき、板垣を襲ったのは相原尚褧(なおぶみ)という27歳の小学校の教員でした。
なんと、暗殺などとは程遠いイメージのある、先生という職業を持つ人間が犯人だったのです。
この相原という人物、もとは士族の生まれで非常に優秀、将来を期待されていたといいます。
しかし保守主義の思想を持っていた相原は、自由党・それを率いる板垣が許せず、犯行に及んだそうです。
その場で捕らえられた相原は無期懲役の判決を受け、北海道の空知集治監というところに収監されました。
しかし収監後も、相原は模範囚だったそうです。
釈放はあの人のおかげ?
事件から7年経った明治22年、とある人物から相原の特赦願いが出されました。
当時、大日本帝国憲法の発布とともに制定された大赦令によって、広く恩赦が行われていました。
そこで相原も、その対象として欲しいという願い出があったのです。
それを行った人物とは、相原が殺そうとした人物・板垣退助その人でした。
ですが、その申し出以前に、模範囚であった相原の恩赦は決定していたようです。
明治22年3月12日、相原は釈放されます。
それにしても、被害者自らが釈放を願い出るとは驚きですね。
板垣との再会
釈放された相原は、横浜へと到着します。
そこで板垣が東京にいることを知り、面会を申し出ました。
一旦、書生はその面会を断りますが、相原の姿勢に心を打たれ、板垣本人に事を伝えたといいます。
すると板垣は相原を部屋へ案内し、相原は謝罪。
板垣もそれを受け入れたうえ、相原を励ましたといいます。
相原の最期とは
その後、相原は郷里に戻ります。
しかし前科者である彼を、人々は受け入れてくれなかったようです。
そこで相原は北海道を開拓するため、再び海を渡ることを決意します。
ですが船の甲板にたたずみ、一人海を見つめる姿を最後に、相原は忽然と消えてしまったといいます。
いまだに自殺か他殺かさえ、わかっていないようです。
他殺だとすると、相原には何か殺されなければいけない理由があったのでしょうか・・・・・・。
きょうのまとめ
今回は、板垣退助暗殺未遂事件にまつわるエピソードについてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
② 板垣は相原の特赦を願い出ていた
③ 相原の釈放後、板垣は相原と再会していた
④ 相原の死は自殺・他殺かわかっていない
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