石川啄木とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

「はたらけど はたらけどなおわが生活くらし楽にならざり ぢつと手を見る」

「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ」

教科書にも載っているようなこれらの短歌を詠んだのは、明治時代の歌人・

石川啄木いしかわたくぼく

生活苦や後悔をテーマにしたその作風は庶民の想いを代弁してくれるかのようで、多くの人から支持を得ています。

さぞかし繊細な心の持ち主だったんだろうな…と思うところ。

実はこの石川啄木、しばしば人間的に問題ありとされる人物でもあります。

…こんなに感傷的な歌を詠むのに?

石川啄木は、いったいどんな人だったのでしょう。

今回はその生涯に迫ります。

 

石川啄木はどんな人?

プロフィール
石川啄木いしかわたくぼく

石川啄木(1908年10月4日撮影)
出典:Wikipedia

  • 出身地:岩手県南岩手郡日戸村(現・盛岡市日戸)
  • 生年月日:1886年2月20日
  • 死亡年月日:1912年4月13日(享年26歳)
  • 『一握の砂』『悲しき玩具』などの歌集で知られる明治を代表する歌人。生活苦や人生に対する後悔を詠んだ歌は、多くの人の共感を呼んだ。

 

名前 年表

年表

西暦(年齢)

1886年(1歳)岩手県南岩手郡日戸ひのと村(現・盛岡市日戸)の曹洞宗常光寺にて、住職の父・石川一禎と母・カツの長男として生まれる。

1887年(1歳)父が渋民村宝徳寺の住職に転任。一家で宝徳寺へ移る。

1895年(9歳)渋民尋常小学校を首席で卒業。盛岡高等小学校へ入学し、母方の伯父・工藤常象の元で下宿生活を始める。

1898年(12歳)盛岡尋常中学校へ128名中10番目の成績で入学。野村胡堂、金田一京助、のちの妻となる堀合節子らと出会う。

1901年(15歳)学内の回覧雑誌『爾伎多麻にぎたま』にて、美文「秋の愁ひ」、短歌「秋草」などを発表。『岩手日報』にも短歌を発表するようになる。

1902年(16歳)二度のカンニングが問題となり、退学処分を受ける。上京し新詩社の与謝野鉄幹・晶子らを訪ねる。

1903年(17歳)東京での就職活動が上手くいかず帰郷。新詩社同人となり、文芸誌『明星』にて連載をはじめ、啄木の筆名で発表した「愁調」が注目される。

1904年(18歳)中学時代からの恋人・堀合節子と婚約。詩集刊行のため再度上京する。

1905年(19歳)詩集『あこがれ』刊行。文芸雑誌『小天地』の主幹・編集を務める。盛岡にて両親や妹、妻と共に暮らし始める。

1906年(20歳)渋民村尋常小学校にて代用教員となる。『明星』にて、初の小説「葬列」を発表。

1907年(21歳)函館・苜蓿社ぼくしゅくしゃ雑誌『紅苜蓿べにうまごやしに作品を発表。教員を辞職し、苜蓿社を頼って北海道での生活を始める。

1908年(22歳)文学の道を再度志すべく上京。

1909年(23歳)平野万里、吉井勇とともに文芸誌『スバル』を創刊する。東京朝日新聞社に校正係として務める。東京にて家族と暮らしはじめる。

1910年(24歳)歌集『一握いちあくの砂』を刊行。

1911年(25歳)社会主義者・幸徳秋水の「大逆事件」を受け、社会主義に傾倒。腹膜炎を患い、東京帝国大学附属病院に入院する。

1912年(26歳)結核により26年の生涯を終える。歌集『悲しき玩具』を刊行。

 

石川啄木の生涯

ここから石川啄木の生涯にまつわるエピソードをくわしく辿っていきましょう!

神童として育った少年期

1886年、石川啄木は岩手県南岩手郡日戸村(現・盛岡市日戸)にて、曹洞宗常光寺の住職をしていた父・一禎かずさだの長男として生まれました。

本名は石川はじめ

のちに一禎が渋民村宝徳寺の住職に転任したことにより、啄木は渋民村へと転居、5歳のころに渋民尋常小学校へ入学します。

その後、母方の伯父のもとに下宿する形で盛岡高等小学校へと進学。

このころの啄木は神童と呼ばれており、尋常小学校は首席で卒業、高等小学校でもかなり上位の成績を修めていたといいます。

歌集『一握いちあくの砂』にも、そんな啄木の過去をなつかしむこんな歌が載せられています。

そのかみの神童の名の かなしさよ ふるさとにきて泣くはそのこと

文脈からひしひしと伝わってくる

「子どものころはあんなに優秀だともてはやされたのに、どこで道を踏み外したんだ…」

という、後悔の念。

啄木がこのあと、そのぐらいハメを外した人生を送っていくことは紛れもない事実なんですよね。

中学時代・先輩の影響から文学へ傾倒

12歳のころ、啄木は盛岡尋常中学校に128人中10番目の成績で入学します。

その神童っぷりはまだまだ健在…かと思いきや、ここから成績は一気に下がっていき、4年修了時には119人中82番目と、下から数えたほうが早いぐらいに。

原因はこの中学時代に啄木が文学と出会いのめり込んでいったことにあるのでしょう。

このころ啄木は4歳年上の金田一京助と親しくなり、彼との関係は生涯続いていきます。

金田一が文芸誌『明星』を勧めたことで啄木は与謝野晶子らの短歌の世界にどっぷりハマり、いつしか文学の道を夢見るようになるのです。

また学生間で発刊していた回覧雑誌を通して、これまた上級生の野村胡堂とも親しくなっています。

野村はのちにドラマ化もされた小説『銭形平次捕物控』で有名になる作家。

啄木の短歌を添削してあげたりしていたみたいですね。

野村をリーダーにしたストライキ活動にも参加し、その結果教師24人中19人が退職や転任などの処分を受けるという大問題を引き起こしたことも…。

なんだかすでに雲行きの怪しい部分はありますが、ともかく啄木は先輩から可愛がられる後輩力のある少年だったようです。

晩年に踏み倒すことになる彼らからの莫大な借金も、その後輩力で都合をつけたのでしょうか…。

二度のカンニングが問題となって退学

このようにして文学へと傾倒し、勉強はてんでおろそかになってしまった啄木。

4年生のときにはなんと二度のカンニングがバレ、退学処分を食らってしまいます。

しかも

啄木
カンニングさせてくれ

と無理強いされた友人は、特待生の権利を剥奪されるというとばっちり。

しかしそんなことは気にも留めず、

啄木
俺は文学で生きていくんだ!

と、啄木はこの退学を機に上京の決意を新たにするのでした…。

啄木は授業料もかなり滞納していたという話。

そう考えると中学時代の変貌ぶりは、家庭環境も関係していたのかもしれません。

新詩社同人として台頭

こうして16歳のころに上京した啄木は、愛読誌『明星』を出版する新詩社を訪ね、与謝野鉄幹・晶子夫妻との関係を築きます。

あこがれていた雑誌の出版元へいきなり行ってしまう行動力がすごい。

しかしそこは勢い任せの上京。

就職活動はうまくいかず、生活に困って泣く泣く帰郷することになります。

東京では友人宅に居候して周り、けっこうな迷惑もかけていたようですね…。

ただこのとき築いた新詩社の縁はたしかなもので、盛岡への帰郷後は新詩社同人として『明星』への寄稿をはじめています。

このとき掲載された「愁調」という5編の歌は、歌人・石川啄木が世間に注目された最初の作品で、啄木という筆名も、このころから使い始めたもの。

以降は継続して『明星』誌面にて活躍していきます。

東京では就職こそうまくいかなかったものの、チャンスはがっちり掴んできていたのですね!

妻・節子と結婚するも…いろいろと問題あり?

詩人としての活動が波に乗ってきたこのころ、啄木は中学時代からの恋人・堀合節子と結婚します。

ただこの結婚も問題大ありで、…なんと啄木は結婚式をすっぽかしているのです。

えぇー!?と、驚くところですが、これにも理由があって…

父・一禎が宗費滞納により住職の資格をはく奪されてしまい、一家が路頭に迷っている、そんな最中の話だったのです。

このとき啄木は詩集『あこがれ』の刊行のため上京しており、結婚式のために帰郷を余儀なくされていました。

しかし以上のような経緯から

啄木
今帰ったら、俺が家族の面倒を見なきゃいけないじゃん…

と考え、結婚式をすっぽかすという暴挙に出るのです。

東京からの列車を途中下車した啄木は仙台の旅館に滞在。

ただ、お金をもち合わせておらず、仙台で大学教授をしていた土井晩翠どいばんすいが宿泊費を肩代わりしたといいます。

家庭環境もそうですが、やはり啄木自身もいろいろ問題ありですね…。

北海道での生活

結局は父・一禎に代わって一家の大黒柱となった啄木。

そんな彼は20歳から1年ほど、渋民尋常小学校の代用教員を務めています。

ただこの就職はやはり望むものではなかったようで、啄木は次第に北海道での新生活を夢見るように。

というのも、このころから函館の苜蓿社ぼくしゅくしゃが発刊する雑誌『紅苜蓿べにうまごやし』への寄稿をしており、その方面に伝手ができていたからです。

こうして21歳のころ、意を決して教員を辞職…というか、生徒にストライキを指示して免職処分を受けているんですが、ともあれ念願の北海道へと移り住むことになります(家族は置き去り…)。

北海道では苜蓿社や、歌人の宮崎郁雨みやざきいくうらの引き立てもあり

・商工会議所臨時雇い

・小学校教員

・『函館日日新聞』

・『小樽日報』

・『釧路新聞』

など、さまざまな職場を転々とします。

特に記者としては一時、編集長を任されるほどの活躍ぶりだったといいますが、文章力の高さにかまけ遅刻や無断欠勤がかさむなど、勤務態度はよくなかったとのこと。

しかもこれだけちゃんとした職に就いているに関わらず、家族への仕送りは一切なく、妻・節子は自身の家財を売って家計を支えていたといいます。

ついでにいうと、このころの啄木の女遊びもひどく…

・教員時代の同僚・橘智恵子

・芸者の小奴

・看護婦の梅川操

という、3人の女性との関係も。

節子が不憫すぎる…。

東京での文学活動

北海道での暮らしは1年ほど続き、

啄木
死ぬときは函館で

と口にするほど、啄木はその環境を気に入っていたといいます。

しかし根はどうあっても文学者なのか、22歳のころに再び文学の道を志し、上京することに。

後追いで北海道にやってきた家族は歌人・宮崎郁雨に預けて(また置き去り…)。

小説家を目指すも失敗。新聞社の校正係として生計を立てる

上京した啄木が次はどんな活動をしていたかというと、小説の分野に手を出そうとしていたのですが…

計6作品を執筆するも、いずれも売り込みに失敗

作家・森鴎外もりおうがいの引き立てで「病院の窓」という一作だけは出版社との契約にこぎつけていますが、どうやら啄木に小説の才能はなかったようです。

このあと、鴎外や与謝野鉄幹・晶子らのサポートを得て、文芸誌『スバル』を創刊すると、これを履歴書代わりに、東京朝日新聞の校正係に就職します。

なんとか食い扶持はつないだという感じ。

東京朝日新聞では

・『二葉亭全集』の編集

・短歌投稿欄「朝日歌壇」の選者

などの仕事を主に担当していますね。

そしてこのときも家族への仕送りなどはもちろんせず、給料のほとんどは女遊びに消えていたという話。

その奔放な生活ぶりは、妻に読まれてもバレないようにと「ローマ字日記」にて記されています(もう隠しても手遅れのような…)。

ともあれ、歌人としての才能はたしかだった啄木。

この時期に出版社・東雲堂との契約も取り付け、翌年24歳のころには、代表作『一握の砂』を発表しています。

家族関係の悪化・貧困にあえいだ晩年

ところで北海道に置き去りにしてきた家族はどうなったの?という話。

これに関しては啄木が新聞社に務めるようになってしばらくして上京し、一応は生活を共にするようになっています。

しかし上京してすぐ、妻・節子と母・カツの関係がうまくいかず、節子が家出する騒動も。

このとき節子を迎えに行ったのは啄木ではなく、親友の金田一京助だったといいます。

ここまでほったらかしにしていれば、そりゃあ家族関係も悪くなりますよね。

にも関わらず、北海道で家族の面倒を見てくれていた宮崎郁雨と節子の浮気を疑い、郁雨と絶交していたり、自分のことはどこまでも棚に上げた振る舞い。

郁雨は友人でももっとも啄木にお金を貸していた人でもあり、普通は頭が上がらないはずなのですが…。

ともかく、啄木には新聞社や詩集の収入があるといっても、一家を養っていくほどの儲けにはならなかったようで、この時期の生活は困窮します(啄木が女遊びにかまけていたせいもある?)。

お金は揉め事の一番の原因になり得ますし、家族関係がギスギスしていたのは、なによりお金がなかったからかもしれませんね。

宮崎郁雨の発表によると、啄木は計63人の友人から借金しており、その総額は1372円50銭(現代の価値で1400万円ほど)に上るとのこと。

この時期を象徴するような短歌

はたらけど はたらけどなおわが生活くらし楽にならざり ぢつと手を見る

の一節からは、生活がなかなか報われず、その生涯で自分は何をなしたのかという、虚しさのようなものを感じさせられます。

そうか、いろいろあったけど啄木なりに一生懸命だったんだよね…と感傷に浸るところ、

それをぶち壊すかのごとく

一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと

なんて歌も残しているんですけどね…。

家族をむしばんだ肺結核

追い打ちをかけるように、啄木は25歳のころ、腹膜炎を患い入院。

後を追うかのごとく、妻・節子は肺尖カタル、母・カツは腸カタルに侵されます。

カタルというのは粘膜の炎症のことで、主には感染症などから引き起こされる症状。

啄木の家族は彼を含め、1912年に相次いで結核で亡くなっているため、これらの症状はその前触れだったのでしょう。

最期は自宅療養に戻っていた啄木ですが、貧困のため医者にも診てもらえず、薬も買えないような状況だったとのこと。

見舞いにやってきた金田一京助はこの惨状を目の当たりにし、

「もうじき出版した本の原稿料が入るから」

と、家族に無理をいって都合をつけ、自身の一か月分の生活費を手に、啄木のもとへ走ったといいます。

こんな感じで生涯、友人の世話になり続けた啄木。

彼の何がそれほど人を惹きつけたというのでしょうか…。

 

きょうのまとめ

なかなか豊かにならない暮らしや人生における後悔などを表現した作風から、共感性も高い石川啄木の短歌。

しかしその生涯を辿ってみると、やはり

「ほんとにこの歌を作った人なの…?」

と言いたくなるほど、一般人からはかけ離れた価値観の持ち主であることに驚かされます。

最後に今回のまとめです。

① 小学校時代は神童として育った石川啄木。中学で金田一京助、野村胡堂らの影響から文学に傾倒。すると素行が悪くなり、カンニングが原因で退学させられた。

② 上京し与謝野鉄幹・晶子らと縁ができたことで、新詩社同人として台頭。詩人としての地位を得る。

③ 北海道では小学校教員・新聞記者などを主に務めた。単身赴任で家族はほったらかしで、女遊びにかまける日々…。

④ 東京での小説家デビューは失敗。新聞社の仕事や詩集の出版で生計を立てるも、晩年は貧困に苦しんだ。

石川啄木はその才能とは裏腹に、借金や浮気など、人間的な弱さが表だって見える人生を送りました。

弱さというのはときに人の感情に訴えかけるもの。

皮肉なものですが、その弱さがあったからこそ、啄木は名作と呼ばれる歌をいくつも生み出せたのでしょうね。

 
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