井上馨とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

井上馨いのうえかおるって、いったいどんなことをした人?

「まずその漢字、なんて読むかわからないんですけど」って人もいるかもしれません。

その実情は、”長州ファイブ”と呼ばれる長州屈指の藩士だったり。

大河ドラマ『青天を衝け』にも登場が決定。

史実でも、渋沢栄一とはかなり濃い関わりがあります!

今回はそんな井上の生涯にガッツリ迫ります。

 

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井上馨はどんな人?

プロフィール
井上馨iいのうえかおる

井上馨
出典:Wikipedia

  • 出身地:周防国吉敷郡湯田村すおうのくによしきぐんゆだむら(現・山口市湯田温泉)
  • 生年月日:1835年1月16日
  • 死亡年月日:1915年9月1日(享年81歳)
  • 明治期に政府の要職を務めた政治家。伊藤博文を陰から支え、ともに法治国家の基礎を築いた。

 

井上馨 年表

年表

西暦(年齢)

1835年(1歳)長州藩士・井上光亨みつゆきの次男として生まれる。

1851年(17歳)藩校・明倫館に入学。

1855年(21歳)長州藩士・志道家の養子になる。藩主・毛利敬親たかちかに伴い江戸へ参勤。江川英龍らから蘭学、砲術を学ぶ。

1862年(28歳)次期藩主・毛利元徳もとのりの小姓として江戸へ参勤。高杉晋作・久坂玄瑞くさかげんずいらとイギリス公使館焼き討ちを行う。

1863年(29歳)伊藤博文らとともにイギリスへ密航。ロンドンにて英語や現地の文化を学ぶ。

1864年(30歳)下関戦争の和平交渉のため帰国。第一次長州征伐に際し、藩内の対立派閥から襲撃を受ける。同年、高杉晋作らと功山寺挙兵に参加。

1866年(32歳)第二次長州征伐に参謀として従軍。

1867年(33歳)新政府が成立。参与・外国事務掛に任じられ、長崎へ赴任する。

1868年(34歳) 長崎府判事となり、銃の製造、鉄橋の建設などに携わる。

1869年(35歳)大阪造幣局知事となる。兄・光遠が死去。井上家の家督を相続する。

1871年(37歳)廃藩置県の秘密会議に出席。大蔵大輔だいゆうとなる。

1873年(39歳)国家予算を巡って各省と対立し辞任。渋沢栄一と連名で政府へ建議書を提出する。

1874年(40歳)先収会社(現・三井物産)を設立。

1875年(41歳)伊藤博文の頼みで政府に復帰。大久保利通、木戸孝允たかよし、板垣退助を仲立ちし、大阪会議を開く。

1876年(42歳)江華島こうかとう事件の処理のため朝鮮へ渡航。「日朝修好条規」を結ぶ。

1876~78年(42~44歳)欧米経済の視察のため、アメリカ、ヨーロッパ諸国を歴訪。

1879年(45歳)外務卿に就任する。

1882年(48歳)朝鮮とのトラブルを巡り、「済物浦さいもっぽ条約」を締結。鹿鳴館、帝国ホテルの建設に従事。共同運輸会社を設立。

1884年(50歳)清国、朝鮮と日本公使のトラブルに際し渡航。朝鮮と「漢城条約」を結び、事態を収集させる。

1885年(51歳)共同運輸会社と郵便汽船三菱会社を合併。日本郵船を創設する。第一次伊藤内閣の成立に伴い、外務大臣となる。

1888~1898年(54~64歳)農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣、朝鮮公使などを歴任。

1901年(67歳)首相の大命が下るも、組閣を断念。桂太郎を首相に推薦し、第一次桂内閣を成立させる。

1904年(70歳)日露戦争が勃発。戦費調達のために国債、外債の獲得に奔走する。

1912年(78歳)清国の辛亥革命で革命軍を援助。

1913年(79歳)脳溢血で倒れ、車いす生活を余儀なくされる。

1914年(80歳)大隈重信を首相に推薦。第二次大隈内閣を成立させる。

1915年(81歳)体調が悪化し、静岡の長者荘にて死去。

 

井上馨の生涯

幕末~明治にかけてワールドワイドに活躍した井上馨。

ここからはその生涯の詳しいエピソードを紹介します。

長州藩の名家にて生まれる


1835年、井上馨は現在の山口市湯田温泉にて生を受けました。

父は長州藩士・井上光亨みつゆき

戦国武将・毛利元就もとなりの時代の家臣の流れを汲む名家にあたります。

井上は次男だったため、このあと同じ長州藩の志道しじ家へ養子に出されますが、

志道家も井上家と同等ぐらいの家格をもつ家系で、ゆえに藩主からも重用されるようになりました。

井上の若いころの名は「聞多ぶんた」といい、これも藩主・毛利敬親たかちかより授かったものです。

イギリスへの留学で攘夷論を改める

藩主の側近となった井上は、敬親やその子、元徳もとのりに伴って幾度も江戸へ参勤。

そのかたわら、高杉晋作久坂玄瑞らとともに「イギリス公使館焼き討ち」などの過激な攘夷じょうい活動を行っていました。

(※攘夷…外国人を追い払おうとする考え方)

そんなあるとき、儒学者・佐久間象山から海外事情を聞いた井上は、

井上
外国人は巨大な艦隊を率いてやってくるんだ。今までの戦い方では、話にならないかもしれない!

と思い立ち、イギリスへの留学を藩に志願します。

こうして、1863年に井上馨、伊藤博文を筆頭とする5人組「長州ファイブ」の渡航が決定するのです。

留学にはけっこうな額が必要になりますが、このときは井上がうまいこと藩を丸め込み、お金を出してもらったといいます。

のちに明治政府で発揮される交渉力は、このころから片鱗を見せていたのですね。

留学先で井上を待っていたのは、これまでの攘夷思想もひっくり返してしまうほどのカルチャーショックでした。

経由地では、植民地となってしまった上海の惨状を。

ロンドンでは、高度に発展を遂げた街並みを。

これらを前に西欧諸国の強大さを実感した井上は、早々に開国派へと考えを改めます。

長州藩を開国・倒幕派へ

井上のイギリス留学は、なんと1年もしないうちに終わりを迎えることになります。

長州藩が関門海峡を通過する外国船を砲撃し、

・アメリカ
・イギリス
・フランス
・オランダ

の四ヵ国との、下関戦争に発展したという知らせが飛び込んできたのです。

すでに西洋文化に触れていた井上は、

井上
無謀すぎる!

と、血相を変え、伊藤博文とともに急いで帰国することになります。

戦争はもはや避けられず、長州藩は大打撃を受けてしまいますが、井上と伊藤が和平交渉をしたことで、なんとか講和に持ち込むことができたのです。

その後は第一次長州征伐において幕府恭順派と対立したことから襲撃され、生死をさまよう大怪我を負いますが、奇跡的に復活。

高杉晋作が筆頭になって巻き起こした功山寺挙兵で対立派閥を鎮圧し、藩論を開国・倒幕へと傾けていきます。

井上は倒幕に向けて、イギリス商人トーマス・グラバーを介して武器を購入するなどの役目を担ったといいますよ。

廃藩置県での活躍

明治政府が成立すると、井上はその才覚を買われ、さっそく重役として重用されるようになっていきます。

長崎府判事、大阪造幣局知事を務めたのち、

1871年に大蔵省のナンバー2にあたる大蔵大輔だいゆうに。

大蔵卿の大久保利通が同年、岩倉使節団の派遣に伴って日本を留守にするので、事実上財政のトップを任されることとなります。

渋沢栄一と井上が出会うのもこのときの話。

栄一は井上の直属の部下でした。

特に井上が敏腕ぶりを発揮したのは、廃藩置県はいはんちけんによる財政政策において。

これまでの藩制が排され、全国の県を政府が管理することになるのですが…

江戸時代の藩というのは、実のところほとんどが借金まみれ

それを見事に収拾してみせた井上の采配に、渋沢栄一も舌を巻いたといいます。

ただ、財政を取りまとめるのはやはり難しいもの。

予算の増加を求める各省と衝突したことで、1873年には大蔵大輔を辞任することになってしまいます。

渋沢栄一いわく、

井上は情に厚いところがあり、それゆえ敵も作りやすかった

のだとか。

地方行政をないがしろにできず、予算がほしい各省からにらまれる…のような事情があったのかも。

大阪会議

政府を辞任してすぐ、井上は「先収会社」という貿易や米の流通を扱う会社を設立。

そのため政府に戻るつもりは一切なかったといいますが、

ここで再度登場するのが長州ファイブとして、井上とともにイギリス留学も経験した伊藤博文です。

1873年の話、政府では朝鮮への出兵案を巡る対立で、要人たちが連れ立って辞任してしまう事件が起こりました(明治六年の政変)。

伊藤は、この一件でいなくなってしまった板垣退助、木戸孝允たかよしらを呼び戻したいと考え、井上に仲介を頼むのです。

こうして1875年に開かれたのが「大阪会議」

木戸や板垣と対立していた大久保利通との仲が取りなされ、ふたりの復帰が決まります。

政府を離れ、会社経営をしていた井上ですが、彼もまたこのタイミングで舞い戻ることとなりました。

先収会社はこのあと三井組に引き継がれ、現在の三井物産につながっていきます。

外務大臣としての活躍

政府へ復帰した井上は、主に外交関係を担当

1879年には外務卿に就任しています。

このころ日本は朝鮮の開国を支援しており、政策を巡る反乱などで現地人と日本公使らがしばしばトラブルになっていました。

井上はそのたびに渡航し、済物浦さいもっぽ条約」「漢城条約」などを締結。

いずれも朝鮮政府による賠償にこぎつけ、事態の収拾に成功しています。

また、鹿鳴館や帝国ホテルなど、欧米各国の接待に備えた施設を建設したのもこのころの話。

これは幕末に結ばれた不平等条約改正に向けた施策でした。

1885年、伊藤博文初代内閣総理大臣に就任すると、井上の官職名も外務大臣に。

伊藤の功績として挙げられるのは、憲法の創設に尽力し、欧米諸国に対抗し得る法治国家を築き上げたこと。

外交面を担っていた井上とは、まさに二人三脚でした。

長州藩時代からずっと名コンビのふたりに、感慨深いものを感じさせられますね。

その後、井上は

・農商務大臣

・大蔵大臣

・内務大臣

などを歴任。

1901年には首相の大命が下るもこれを拝辞し、以降は晩年まで元老として首相選任に携わっていくこととなります。

ちなみに井上が首相にならなかったのは、大蔵大臣に推したいと思っていた渋沢栄一がこれを断ったためだったとか。

それほどに信頼していたこともあり、栄一と井上は実業家としても、長らく協力関係にあったといいます。

 

きょうのまとめ

若くして西洋事情を直に見たことで、近代的な感覚をいち早く身につけた井上馨。

その功績は、政府での財政政策、外交交渉など、枚挙にいとまがありません。

最後に今回のまとめ。

① 長州藩の名家で育った井上馨は、攘夷活動に奔走するうちに留学を志願するようになった。イギリス留学で価値観が大きく変わり、開国・倒幕へと向かって行く。

② 渋沢栄一とは、新政府で大蔵大輔を務めたころに出会っている。廃藩置県の際、財政面の見事な采配に栄一が感嘆した。

③ 伊藤博文が首相になると、外務大臣として法治国家の成立に協力した。朝鮮との衝突の対応や、鹿鳴館を建設するなど、欧米との交渉にも尽力。

歴史の授業で井上の名前を聞くことはあまりありませんが、まさに明治の日本には欠かせない人物でした。

伊藤博文、渋沢栄一と、名のある偉人が揃って信頼を寄せていることがなによりの証拠です。

 
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