戦国時代から江戸時代初期の武将であった細川忠興。
初代の小倉藩主となった人物です。
織田信長など時の権力者に逆らわず、支えてきたことで現在にまで続く細川家となったのでした。
そんな忠興には美しい妻がいました。
今回は、忠興とその妻の愛と悲劇についてお話ししましょう。
細川忠興の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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細川忠興の妻ガラシャの生涯
明智玉子
細川忠興の妻は、明智光秀の娘でした。
そうです、明智光秀とは織田信長に謀反をおこし「三日天下」と言われるほどあっけなく討ち取られた人です。
彼女は15歳のとき、皮肉にも織田信長のすすめで細川忠興の正室となりました。
たま子は美女であったそうで、忠興との仲も良く、2人の子供にも恵まれていました。
朝鮮出兵で妻と離れた忠興は、豊臣秀吉に気をつけろとヤキモチぶりを発揮しています。
しかしそんな2人の間に悲しい運命が迫っていました。
本能寺の変
1582年、突然明智光秀は謀反を起こし、主君織田信長を本能寺にて自害させます。
たま子は光秀の娘です。当然逆賊の娘とされ命を狙われることになりました。
しかし、細川忠興は彼女を丹後国に隔離幽閉し守ったのでした。
逆賊の娘として、またその父の死を彼女はどう受け止めていたでしょう。
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救いを求めてキリスト教徒へ改宗
たま子はもともと禅宗の門徒でしたが、高山右近らの影響でキリスト教にのめり込んでいきます。
親のことや、病弱な息子のために何かにすがりたかったのでしょう。
それが彼女にとってキリスト教だったのです。
しかし1587年、豊臣秀吉はバテレン追放令を出します。
このままではたま子の洗礼はできなくなってしまうと察した神父の計らいで、彼女は自宅で洗礼を受けたのです。
洗礼名はガラシャ(ラテン語で神の恵みを意味します)でした。
細川忠興の妻というよりこの名前の方が有名ではないでしょうか。
それまで強気で高飛車な態度の多かったガラシャは、人が変わったように穏やかになったそうです。
そんなガラシャにあてつけるように忠興は側室を5人も持つと言います。
ガラシャは離婚を考えますが、キリスト教に離婚は許されていませんでした。
ガラシャの最期
洗礼を受けたたま子を忠興は激怒し、すぐさま改宗するように迫ったそうです。
しかし彼女の意思は固くキリスト教のみが心の支えでした。
1600年関ヶ原の戦いで上杉討伐に出た細川忠興は、ガラシャを大坂の屋敷に置いて出陣します。
この時、徳川家康の味方をする大名たちを人質に取ろうとした石田三成の動きに対して、夫の足枷になってはならないと自ら命を絶ったのです。
しかし、キリスト教では自殺も禁止されています。
そのため部下によって介錯をさせて、火を放って亡くなったのでした。
きょうのまとめ
戦国の時代の中で、大名たちだけではなく、その妻や子供たちも苦難をしいられてきました。
その中でキリスト教に救いを求めて、穏やかな気持ちでこの世を去ったガラシャは見事な武家の妻であったと言えると思います。
夫に疎まれながら信じる道を貫き、最後は夫のために命を絶ったのです。
この戦国の世にあっぱれな最期だったと感じます。
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