徳川家康の家臣として、勇猛果敢な武将として、その名を知られている
本多忠勝。
彼は酒井忠次、柳原康政、井伊直政とともに徳川の四天王と言われていました。
幼い頃から家康に仕え、全ての戦さ場で傷一つ負わなかったという強者ぶりです。
そんな本多忠勝の子孫にはどのような人がいたのでしょうか。
また、今も彼の血は受け継がれているのか一緒に調べてみましょう。
タップでお好きな項目へ:目次
本多忠勝の子孫 現在は?
嫡男 本田忠政とその後継者
本多忠勝は1609年に家督を嫡男の忠政に譲りました。
その翌年忠勝は63歳でこの世を去っています。
忠政は1575年に忠勝の長男として生まれました。
1590年に豊臣秀吉が北条家を倒した小田原征伐で初陣を務め、父親譲りの勇敢さで手柄を上げています。
1600年の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠を補佐し、その後大坂の陣にも加わります。
大坂城の堀を埋め立てる際にもその任を担っています。
父の忠勝は、初代桑名藩の藩主でしたから忠政は2代目藩主ということですね。
その後1617年に姫路城主となり15万石を拝領しています。
別名白鷺城と呼ばれるこの美しい城は、黒田氏や豊臣秀吉らが改修をしてきました。
しかし現在の姿になったのは、ほぼ忠政の行った改修工事によるものだったと言えるでしょう。
忠政には忠刻という嫡男がいました。
忠刻は豊臣秀頼の未亡人の千姫と結婚しています。
2人の間に子供がいたのですが幼くして亡くなり、忠刻自身も若くして亡くなります。
そのため忠政の後継者には次男の政朝がなりましたが、
彼も子供が幼いうちにこの世を去ってしまったので、そのあとは従兄弟の政勝が家督を継ぎます。
幼い政朝の息子が成長するまでの中継ぎ役でした。
本田政勝以降の後継者たちの不遇
本田政勝が当主になったとき、大和郡郡山へ国替えとなります。
これ以降、本多家は次々と国替えを命じられています。
↓
越後村上藩(新潟県村上市)
↓
三河刈谷藩(愛知県刈谷市)
↓
下総古賀藩(茨城県古河市)
↓
石見浜田藩(鳥取県浜田市)
↓
三河岡崎藩(愛知県岡崎市)
と各地を転々としてきたのでした。
国替えとなるとその度にお金もかかりますし、家臣もみんな異動しなければならないので相当な痛手だったことでしょう。
その上、この間に何度かお家騒動が起きています。
本多政勝は亡くなった政朝の息子に家督を譲らなければなりません。
しかし自分の子供が成長するにしたがい親心ゆえか、我が子に相続させたいと考えます。
そこで争いが起こりますが結局、政朝の息子の政長があとを継ぐのでした。
政長が亡くなった時には、お家騒動の末に毒殺されたと言われています。
政長は本多家の血を引く、松平忠国を養子にしており忠国が後継者となりました。
次にお家騒動が起こったのは越後村上藩に国替えとなったときでした。
当時の当主は忠国の息子の忠孝でしたが、彼は村上藩の城に移る前に病死してしまいます。
わずか12歳でした。
当然忠孝に子供がいるはずもなく、ここで本多家が取りつぶしとなってしまう危機がやってきます。
しかし徳川の四天王として名高い本多忠勝の家を潰すのは偲びないと、特別に分家があとを継ぐことを許されたのでした。
それでも15万石の所領は5万石に削られたそうです。
現在の本多家は?
本多忠勝の子孫は現在も続いていました。
本多隆将さんという方が現在の当主です。
彼は本多忠勝の鎧を継承しています。
なんだかホッとしますね。
きょうのまとめ
本多忠勝の子孫たちは、彼の偉業とはかけ離れ、大変苦労をしてきました。
それでも危機を乗り越えてこられたのは、やはり本多忠勝の血が流れていたからかもしれません。
忠勝も子孫たちの苦労を悲しみながらも、力強くエールを送っていたことでしょう。
そしてこれからも子孫を見守っていくのだろうと思います。
本多忠勝の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「本多忠勝とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」
その他の人物はこちら
安土桃山時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【安土桃山時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す