幕末期、一橋家の家臣として台頭し、のちの将軍・徳川慶喜の下積み時代を支えた
平岡円四郎。
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』では、堤真一さんがその役を演じます。
円四郎は慶喜に重用されたばかりではなく、渋沢栄一に、その後を決定づける道を示した人物。
いったいどんな人だったのか?
今回はその生涯から、円四郎の人物像に迫りましょう。
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平岡円四郎はどんな人?
- 出身地:江戸
- 生年月日:1822年11月20日
- 死亡年月日:1864年7月19日(享年43歳)
- 第15代将軍・徳川慶喜の下積み時代を支えた一橋家重臣。京都にて公武合体を推し進める最中、水戸藩攘夷派によって暗殺される。
平岡円四郎 年表
西暦(年齢)
1822年(1歳)旗本・岡本忠次郎の四男として生まれ、のちに旗本・平岡文次郎の養子となる。
1847年(26歳)藤田東湖、川路聖謨らの推挙により、一橋慶喜の小姓となる。
1858年(37歳)「安政の大獄」により、小十人組へ降格。翌年、甲府へ左遷される。
1862年(41歳)一橋慶喜が将軍後見職に就任。これに伴って江戸へ戻る。
1863年(42歳)慶喜の上洛に随行。側近として公武合体の交渉を支える。
1864年(43歳)一橋家家老に任じられるも、水戸藩士らの襲撃に遭い暗殺される。
一橋慶喜の側近として台頭した才児
1822年、平岡円四郎は旗本・岡本忠次郎の四男として生を受けます。
のちに、同じ旗本の平岡文次郎の養子となり、家督を相続しました。
幼少から聡明だった円四郎は、幕臣のあいだでも評判がよく、徳川慶喜が一橋家を相続するにあたり、小姓に推薦されます。
(※小姓…付き人のこと)
このとき円四郎を推したのが、水戸藩士・藤田東湖と、幕府で普請奉行を務めていた川路聖謨でした。
藤田は水戸藩主・徳川斉昭の腹心となり、藩論である尊王攘夷思想の基礎を担った学者。
川路は日米修好通商条約の調印に際し、朝廷との交渉に重用された人物。
どちらも幕府屈指の有識者であり、ふたりから認められた円四郎がどれほどの才覚をもち合わせていたか伺い知れます。
こうして1847年、一橋慶喜の家臣となった平岡円四郎。
慶喜は水戸藩から一橋家の養子となった関係で、幼少からの家臣があまりいません。
そのため最初期に家臣となった円四郎は、慶喜にとって特に頼れる存在だったといいますよ。
将軍継嗣問題で失脚
晴れて一橋家の家臣となった円四郎でしたが、1858年になると、一度失脚してしまうこととなります。
当時、幕府において取り沙汰されたのが、13代将軍・徳川家定の病気に伴う、将軍継嗣問題でした。
この問題に際し、幕臣たちは
・紀伊藩主、徳川慶福を掲げる南紀派
の二派で意見が割れることに。
円四郎は一橋家家老・中根長十郎とともに慶喜の擁立に奔走しました。
しかし、南紀派の井伊直弼が大老に就任したことで、徳川慶福の将軍就任が決定。
また、このとき井伊は朝廷の許可を得ず、日米修好通商条約の締結を進めており、これに抗議した慶喜は謹慎に処されることに。
事態はときの大弾圧「安政の大獄」へと発展し、円四郎ら一橋派は揃って失脚させられる運びとなります。
円四郎は甲府へ左遷され、「甲府勝手小普請」となりますが、これは名ばかりで仕事のない役職。
以後4年ほど、円四郎は事実上無職となってしまうのです。
水戸藩士らによる暗殺事件
1862年になると、一橋慶喜が謹慎を解かれ、将軍後見職に就任します。
これに伴って平岡円四郎も江戸へ戻り、慶喜の側役として復帰。
このころ、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」の影響で幕府の権威は地に落ちていました。
その権威を取り戻すために、朝廷との歩み寄りが求められます。
そのため1863年から慶喜は上洛し、朝廷との交渉を開始。
幕府と朝廷が協力して政治を行っていく、公武合体の方針が推し進められていきました。
円四郎も慶喜に従い上洛していたのですが、ここで慶喜に重用されたことが仇となるのです。
慶喜は、水戸藩をはじめとする攘夷派から、同じ攘夷派と目されていました。
それなのに、幕府による攘夷は一向に行われない。
(※攘夷…外国人を日本から追い払うこと)
このことを
「側近である円四郎たちが、慶喜をそそのかしているからだ!」
と、睨まれてしまうのです。
こうして1864年6月、平岡円四郎は在京水戸藩士の襲撃を受け、その生涯を終えることとなります。
これは慶喜によって一橋家家老に任じられ、近江守の位階を授かったその2週間後の悲劇でした。
渋沢栄一と平岡円四郎の関係
渋沢栄一は、平岡円四郎の手引きによって一橋家の家臣となっています。
渋沢栄一と平岡円四郎の出会い
事の発端は1862年、一橋慶喜の将軍後見職就任に伴い、円四郎が江戸へ戻ってきた時分のことです。
このころ渋沢栄一は、従兄の渋沢喜作とともに江戸へ上り、学問や剣術修行に勤しんでいました。
その最中、攘夷派との接触から尊王攘夷思想に目覚め、事を起こそうと企てはじめていたのです。
栄一や喜作はその才覚から、すでに江戸では名が知られており、これに目を付けた一橋家家臣・川村恵十郎によって円四郎に引き合わされます。
川村は円四郎の部下にあたり、家臣としてめぼしい者がいれば連れてくるよう、円四郎から指示を受けていたのです。
栄一は円四郎から一橋家の家臣として誘いを受けたものの、このときは攘夷活動の構想があったため断っています。
ただ、
「上洛の折は平岡円四郎の部下を名乗って良い」
という約束を取り付け、そのおかげで翌年、京都まで足を延ばすことができました。
当時は道中の検問が厳しく、京都へ出向くにも相応の身分が必要だったのです。
円四郎の誘いで幕臣となった栄一
1863年、京都へ辿り着いた渋沢栄一は、ここでも攘夷活動を行うつもりでいました。
しかしこのときは「八月十八日の政変」により、京都の攘夷派はみんな排斥された後。
栄一は路頭に迷ってしまいますが、そこへ再び円四郎からの誘いがあり、一橋家の家臣となるのです。
そして次の年には円四郎の暗殺事件が勃発…。
江戸で栄一と円四郎が出会った時期にしても、京都へ栄一がやってきた時期にしても、そのタイミングは奇跡的としか言いようがありません。
栄一は幕臣となったことで、このあとパリ万博に出向き、そこからさまざまな構想を思い描くこととなります。
こう見ると、明治期に彼が起こした事業の数々は、円四郎の存在あってこそのものだとわかりますね。
きょうのまとめ
類稀なる才覚から、一橋慶喜の側近に引き立てられた平岡円四郎。
慶喜が将軍になる前に亡くなったため、あまり知られていませんが、慶喜にとっては非常に重要な家臣でした。
なにより、渋沢栄一に幕臣の道を与えた功績の大きさは計り知れません。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 平岡円四郎は幼少より聡明で知られ、一橋慶喜の家督相続に伴い、慶喜の側近に推挙された。
② 慶喜が将軍後見職に任じられると、円四郎も側近として復帰。上洛後は一橋家家老となる。
③ なかなか攘夷が行われないことに対し、水戸藩攘夷派から「慶喜をそそのかしている」と睨まれる。事態は円四郎暗殺事件に発展。
④ 円四郎は京都にて路頭に迷っていた渋沢栄一を、一橋家の家臣に誘った。このとき幕臣になっていなければ、栄一による数々の事業はなかったかも?
「能力があったからこそ狙われてしまった」と、渋沢栄一をして言わしめた平岡円四郎。
もう少し長生きしていたら、この人もまた明治の改革を担う一員となっていたかもしれません。
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