長谷川平蔵とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

長谷川平蔵はせがわへいぞうがどんな人物か名前でピンと来なくても、「鬼平」には聞き覚えがあるのでは? 

長谷川平蔵は『鬼平犯科帳』の主人公「鬼の平蔵」として小説やマンガ、そしてテレビの時代劇で人気のキャラクターですが、実在の人物でもあります。

本物の平蔵とはどんな人だったのでしょうか。

 

長谷川平蔵はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:江戸赤坂(東京都港区赤坂)
  • 生年月日:1745年(1746年説あり)
  • 死亡年月日:1795年5月19日
  • 青年時代は無頼な生き方で恐れられ、のちには江戸の治安を守るために凶悪犯を捕縛するなどして庶民に人気のあった旗本。小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」のモデル

長谷川平蔵 年表

年表

西暦(年齢) *生年は1745年説を採用

1745年(1歳)旗本・長谷川宣雄の長男として誕生

1768年(24歳)江戸幕府第10代将軍・徳川家治に拝謁

1772年(28歳)父・宣雄が京都西町奉行となる

1773年(29歳)父が亡くなり、平蔵が家督を継ぐ

1774年(30歳)江戸城西の丸御書院の番士(将軍世子の警護役)となる

1775年(31歳)西の丸仮進物番となる

1784年(40歳)西の丸御書院番御徒頭の頭となる

1786年(42歳)御先手弓組頭(番方最高位)となる

1787年(43歳)火付盗賊改役(加役)となる

1789年(45歳)盗賊団・神道徳次郎一味を捕縛

1790年(46歳)人足寄場設置の功績に対し時服二領、黄金三枚を賜る

1791年(47歳)盗賊団の首領・葵小僧を捕縛

1795年(51歳)病に倒れる。火付盗賊改役を辞し、5月19日死没

 

長谷川平蔵の生涯

「鬼の平蔵」「鬼平」として現代でも知られますが、平蔵は通称であり、本名は長谷川宣以はせがわのぶためといいました。

無頼で知られた青年時代

400石の旗本の長男として誕生した平蔵は、幼名が「鐵三郎てつさぶろう」もしくは「鐵次郎てつじろう」と呼ばれました。

青年時代はかなりの放蕩者で、遊郭で遊び回り、衣装道楽もあった素行不良の人物。

本所に移り住んだことから、「本所のてつと呼ばれて恐れられていたそうです。

父親が京都の西町奉行となって京都に移り住み、1773年にその父が亡くなると、平蔵は江戸へ戻りました。

その際、残された父の部下である与力や同心たちに、

平蔵
私は江戸で英傑と言われるようになる

と豪語した記録があります。

やり手として功績をあげた

家督を継いだ平蔵は、江戸で小普請こぶしん組に加わり、のち将軍の世継ぎ(将来の徳川家斉いえなり)の警護役を務めます。

真面目に仕事を続け、幕府老中の田沼意次へ届けられたワイロの係である西の丸仮御進物番、西の丸御書院番などを経て、番方最高位である御先手組弓頭にまで出世しました。

そして43歳の時に、火付盗賊改役ひつけとうぞくあらためやくという強盗などの取り締まり役として活躍。

松平定信が実施する寛政の改革の一環として、人足寄場という犯罪者の更生施設の建設を立案するなど功績を挙げています。

「本所の鐵」から「本所の平蔵さま」へ

犯罪の根源を減らす努力の一方、江戸市民が怯える凶悪犯罪の撲滅にも尽力した平蔵でした。

当時、江戸周辺を荒らし回っていた盗賊グループ・神道しんとう(真刀/神稲)徳次郎とその一味や、江戸市中での強盗と婦女暴行で悪名を馳せていた凶悪盗賊団のトップ・葵小僧を捕縛。

斬首ののち獄門に処しています。

平蔵は、とても腕の立つ役人でしたが、若い頃からの評判やズバズバするやり方がウケなかったのか、松平定信は実力を認めながらも心底から彼のことを信頼してはいなかったようです。

同僚からのウケも悪い平蔵は、出世が停滞気味となっています。

しかし、江戸市民たちにとって長谷川平蔵は、庶民に代わって悪者を懲らしめるヒーローのような存在でした。

彼らの平穏な日常生活のために尽力するかつての「本所の鐵」・平蔵は、その頃には「本所の平蔵さま」と呼ばれるようになりました。

彼の仕事ぶりは、将軍にも聞こえていました。

火付盗賊改役を8年勤めた頃の1795年、平蔵が病に陥りました。

平蔵は火付盗賊改役御免を申し出て、それが認められたあとに、第11代将軍・徳川家斉からは労をねぎらわれ、高価な薬「瓊玉膏けいぎょくこう」を賜わったそうです。

同年、平蔵は亡くなりました。

 

庶民に大人気だった平蔵

平蔵は、上司や同僚に睨まれていたかもしれませんが、彼の江戸の治安を守るための実行力とスピードには確かなものがありました。

江戸庶民にとても評判となったその業績を紹介します。

人足寄場建設

捕物をしていた平蔵は、取り調べなどで罪人や庶民の事情を知る機会も多かったことと思われます。

犯罪人の中には、貧しさのあまり地方から江戸に流れてきて、やむなく罪に手を染める者も多くありました。

彼らは刑に服した後の生活を成り立たせる術もなく、再犯を犯す悪循環に陥りがちでした。

それでは江戸の犯罪が減るわけがありません。

そこで、平蔵は犯罪そのものを減らすための策を考えます。

松平定信の寛政の改革の一環として、「人足寄場」という犯罪者の更生施設の建設を提案したのです。

悪人の捕縛だけでなく、彼らを更生させることで犯罪を根本から減らそうというアイデアです。

ところが予算が足りません。

松平定信に訴えても予算は増やしてもらえません。

そこで平蔵は、幕府から預かった資金を、仕方なく銭相場に投入。

半ば賭博のような方法で資金を増やし、人足寄場づくりの資金としたのです。

もちろん公に認められる行為ではなく、金銭のことには大変厳しい松平定信が平蔵を素直に評価しなかったところはそんな理由もあるでしょう。

出来上がった江戸の石川島(現在の東京都中央区佃2丁目あたり)の人足寄場では、収容した軽犯罪者や浮浪者に労働をさせ、技術を習得させて給金を与えました。

おかげで彼らの出所後の生活には、収容期間に稼いだ資金と技術を元にして更生していく道が開けました。

収容所では、罪人たちに道徳的なことを教える時間も取り、涙を流して感謝されることもあったそうです。

平蔵が捕縛した大盗賊とその処分

普段から市中を見廻り、市民とふれあいながら庶民生活の実情を知り、噂話などにも敏感だった平蔵。

情報収集に長けた彼は、悪人捕縛にも優れた、まさに『鬼平犯科帳』に登場する「鬼平」のような人物でした。

盗賊 神道(真刀)徳次郎
別名「神稲小僧しんとうこぞう」とも呼ばれた盗賊です。

神道流の剣の遣い手で、数十人で構成された盗賊団を率いる頭でした。

なかなか知恵も回るこの男。

「御用」と書かれた提灯を下げて家の者を油断させて押し込み強盗をしたり、まるで幕府の役人であるかのような偽装をして関所などを突破したりするなど、関東一円を自由に荒らし回った大盗賊です。

声をたてる者を皆殺しにするなど、残酷なこの盗賊一味でしたが、平蔵が捕縛し、引き回しの上獄門(さらし首)に処しました。

庶民は平蔵に喝采し、彼はこの捕り物で一躍名を上げました。

盗賊 葵小僧
小説にも登場するこの盗賊は実在しています。

将軍家の家紋・葵の御紋をつけた提灯を掲げて江戸中を荒らすため「葵小僧」と呼ばれた押し込み強盗です。

押し込みの際に必ず婦女を強姦したという凶悪犯。

この盗賊も平蔵によって捕縛され、躊躇なく10日後には獄門にかけられたのでした。

 

長谷川平蔵の供養碑がある戒行寺

戒行寺かいぎょうじは、1595年に麹町に建立されましたが、1634年の江戸城外堀工事のために四谷に移転して現在に至ります。

『鬼平犯科帳』で知られた長谷川平蔵(宣以)と、彼の父親の長谷川宣雄、子の長谷川宣義の3代の墓があったのですが、寺の墓所が移転した際に、平蔵たちの墓が行方不明になってしまったのだそうです。

現在では、長谷川平蔵供養碑が建つのみとなっています。

<妙典山 戒行寺:東京都新宿区須賀町9-3>

 

きょうのまとめ

今回は、悪を懲らしめ、江戸の治安を守った火付盗賊改役「鬼の平蔵」こと長谷川平蔵についてご紹介しました。

長谷川平蔵とは

① 青年時代は「本所の鐵」の名で知られたワル

② 犯罪者更生施設である「人足寄場」をつくり、盗賊の捕縛するなどして江戸の治安維持に活躍した人物

③ 江戸の市民には「本所の平蔵様」と呼ばれ、悪者を懲らしめた庶民派の人気旗本

でした。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku