幕末に長崎が開港され、そこに多くの貿易商人たちが欧米から集まりました。
その中の1人だったトーマス・グラバー。
彼は異国の地・日本で何をしたどんな人物だったのでしょうか。
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トーマス・グラバーはどんな人?
- 出身地:イギリス・スコットランド
- 生年月日:1838年6月6日
- 死亡年月日:1911年12月16日(享年満73)
- イギリスの貿易商人として来日し、薩長に武器などを販売して新政権の成立を側面から援助し、日本の明治の近代産業の発展に貢献した。
トーマス・グラバー 年表
西暦(年齢)
1838年(1歳)誕生
1859年(22歳)ジャーディン・マセソン商会に勤務し、長崎にやってくる
1861年(24歳)グラバー商会を設立
1863年(26歳)八月十八日の政変。薩摩・長州などの勤皇勢力を支持し武器弾薬を販売
1864年(27歳)グラバー邸完成
1865年(28歳)大浦海岸通りで蒸気機関車アイアン・デュークを試走
1868年(31歳)高島炭鉱経営、小菅修船場経営
1881年(44歳)高島炭鉱が三菱の岩崎弥太郎に買収され、グラバーが所長となる
1885年(48歳)ジャパン・ブルワリ・カンパニーの設立に尽力、三菱財閥の相談役となる
1891年(54歳)ジャパン・ブルワリ・カンパニー社長就任
1899年(62歳)妻ツル死去
1908年(71歳)勲二等旭日章に叙せられる
1911年(74歳)腎臓炎にて死去
トーマス・グラバーの生涯
1838年にスコットランドで誕生したトーマス・ブレイク・グラバー。
沿岸警備隊の一等航海士である父・トーマス・ベリー・グラバーと、母・メアリーの間に生まれた8人兄弟姉妹の5番目でした。
1859年には上海にあるジャーディン・マセソン商会という貿易会社に就職します。
同年、まだ開港して間もない日本の長崎に移り、幕末の日本での生活が始まりました。
グラバー商会での仕事
2年後1861年には、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立。
日本の特産品の生糸や茶を輸出するのがビジネスでした。
1863年には長崎湾を見下ろす丘の上に、あの「グラバー邸」を作っています。
現在では日本最古の木造洋風建築として国の重要文化財となり、観光名所として知られていますね。
さて、当時の日本は幕末の動乱の時期を迎えていました。
1863年に八月十八日の政変が起きると、欧米の貿易商人たちは西洋の武器を薩摩・長州・土佐などの藩に輸入販売を積極的に行うようになります。
グラバーも扱い商品を軍艦・武器・弾薬などに変えてそれらを輸入販売したのです。
武器販売で倒幕、明治維新を後押ししたと言われるグラバーですが、佐幕派の藩や幕府にも武器を販売していたという説もあるようです。
グラバーは、武器販売を通じて亀山社中の坂本龍馬を始め、大村益次郎・伊藤博文ら長州藩士、五代友厚・森有礼ら薩摩藩士たちとも交流がありました。
薩摩藩からの依頼で、五代友厚、森有礼、寺島宗則、長澤鼎らの海外留学や伊藤博文・井上聞多らを含む長州五傑のイギリス留学の手引きも行っています。
日本の近代化に貢献するが破産
グラバーは、幅広い人脈と武器販売ビジネスの成功により幕末から明治となる日本の転換期にさまざまな事業を展開しています。
西洋の近代的な施設・設備導入に関するノウハウがあり、豊かな海外との取引経験を買われて経済界でも活躍。
日本の近代化に貢献することとなりました。
・大規模な製茶工場の建設
・高島炭鉱開発
・大型船の修理ができる近代的ドック・小菅修船場建設
・明治新政府のための造幣機械輸入
・キリンビールの前身ジャパン・ブルワリー・カンパニー設立(日本初のビールが誕生)
これらを手掛けたグラバーでしたが、武器販売は下火となり、資金繰りに苦しんだグラバー商会は、1870年に破産しました。
死ぬまで日本で暮したグラバー
それでも日本を去ることはなかったグラバーは、高島炭鉱の経営者として日本に留まります。
のちに三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収すると、炭鉱の国際取引に詳しいグラバーはその所長となり、1885年以降は三菱財閥の相談役にもなりました。
私生活では、五代友厚の紹介で日本人妻・ツルと結婚していたグラバー。
その後も日本に留まった彼は、母国英国に戻ることなく、長崎から移った東京で死没。
73歳でした。
グラバーの人脈
グラバーは、幕末に日本で活動をしていた志士たちを援助していました。
武器商人であるという立場から有力藩の精鋭たちと知り合うこととなったグラバーは、若い日本の志士たちに世界を見せる手助けもしています。
薩摩藩の
・森有礼
・寺島宗則
・長澤鼎
や、長州藩の五傑と呼ばれる
・井上馨
・山尾庸三
・遠藤謹助
・井上勝
らの密航での海外留学を手助けしてやりました。
これらの人材の多くは、明治維新後の明治政府や経済界で活躍。
グラバーの人脈は、明治新政府での実力者にまで及ぶこととなりました。
その他にも、坂本龍馬、大村益次郎、高杉晋作、後藤象二郎など錚々たるメンバーとの交流があったことが確認されています。
グラバーは日本をどう思っていたのか?
結局生涯を日本で過ごしたグラバー。
彼は日本を大変気に入っていたようです。
グラバーの妻は日本人
彼の妻は日本人でした。
五代友厚の紹介により、芸者をしていた淡路屋ツルと結婚したのです。
彼女との間には長女ハナがいます。
彼の事業を受け継いだ長男は倉場富三郎といいます。
富三郎は、グラバーがツルと結婚する前に一緒だった加賀マキの息子です。
さらに、別の内縁の妻だった女性との間に梅吉と呼ばれる男児をもうけたという記録がありますが、その子は生後4ヶ月で病死してしまいました。
オペラ「蝶々夫人」のモデルは・・・?
実は、有名なオペラ「蝶々夫人」のモデルはグラバーの妻・ツルだったのではないかと言う話しが有力です。
このオペラはジョン・ルーサー・ロングというアメリカの弁護士による短編小説が原作で、作者はそのモデルに関して明言していません。
しかし、
・蝶々夫人の経歴がツルに重なる部分があること
・グラバー邸の設定が物語の中の設定と似ていること
などが、ツルがモデルだった説の理由に挙げられています。
全く異なる部分も見られますが、ストーリーは事実を織り込んだ創作だったのでしょう。
もしも、ツルがモデルであるなら、物語に登場する彼女の愛人は、グラバーということになります。
オペラの中では、その愛人は「ある晴れた日」に、故国に帰り二度と日本へは戻ってきませんでした。
しかし、グラバーは生涯日本で過ごしたのです。
日本語を話したグラバー
長く日本で過ごしたグラバーは、いつしか日本語を話せるようになっていたようです。
深い親交のあった五代友厚の書簡の中には、グラバーについて
通詞なしニて、ガラバ和語を以御咄為申上由
と書かれたものがあります。
また、フレデリック・コルヴィというビジネスマンが、グラバーと共に大阪の造幣局を訪れた際、グラバーが非常に多くの人々に慕われ、丁寧に挨拶され、また丁重に話しかけられていたことについて非常に驚いたという記述もあります。
墓所
長崎市内の国際墓地である坂本国際墓地と車道を隔てたところに、グラバーの眠る新坂本国際墓地があります。
長崎に長く暮した外国人夫婦やその家族などが多く埋葬されている場所です。
日本で活躍した多くの異人たちと共にグラバーと妻の淡路屋ツル、彼の息子の倉場富三郎とその妻ワカの墓碑が並んでいます。
<新坂本国際墓地:長崎県長崎市坂本1丁目2>
きょうのまとめ
今回は、幕末の日本で活躍したスコットランド出身のイギリス人、トーマス・ブレーク・グラバーについてご紹介しました。
トーマス・グラバーとは
① 幕末の長崎にやってきたスコットランド出身の貿易商人
② 倒幕活動を行う諸藩への武器弾薬の販売で財をなした武器商人
③ 幅広い人脈を生かして経済界でも活躍し、明治時代の日本の産業の近代化に貢献した
④ 生涯を日本で過ごすほど日本を愛した異人
でした。
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