ガンジーとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

マハトマ・ガンジー

 

マハトマ・ガンジーは、

『インド独立の父』と呼ばれる、インド独立運動のシンボルとして活躍した人物です。

対英抗議行動での『塩の行進』は有名な話で、「裸の聖者」としてリスペクトされています。

後にアインシュタインは彼のことを、

「これからの人々は、ガンジーのような人間が、本当に血と肉を備えて、この地上を歩いたなどとは、信じられないかもしれない。」

と語っています。

さまざまな偉業を成し遂げたガンジーとは、いったいどんな人物なんでしょう?

 

ガンジーはどんな人?

プロフィール
マハトマ・ガンジー

インド独立の象徴であるマハトマ・ガンディー
出典:Wikipedia

  • 出身地:イギリス領インド帝国(現:グジャラート州ポールバンダル)
  • 生年月日:1869年10月
  • 死亡年月日:1948年1月30日(78歳没)
  • 「非暴力・不服従」を武器に権力と戦い、インドを独立へと導いた人物。インド独立の父。

 

ガンジー 年表

年表

西暦(年齢)

1869年(0歳)ポールバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガーンディーの、末の子として生まれる

1893年(24歳)弁護士として開業

1919年(50歳)全国一斉ストライキ

1922年(53歳)不服従運動をおこし禁錮刑に処せられる

1930年(61歳)塩の行進後、逮捕

1942年(73歳)「インド立ち去れ」運動を英国に対し展開

1948年(79歳)ヒンズー教徒によりニューデリーで暗殺

 

不良からエリート留学生となったガンジー

劣等生で不良だったガンジー

ガンジーは大臣の息子というエリート家庭に生まれました。

しかし小学校時代の成績は、優秀ではなかったと自身が伝記に残しています。

不良少年たちと付き合うようになり、ヒンズー教で禁止されている、お肉を食べたり、タバコを吸ったり、挙句の果てにはタバコ代を召使から盗んだこともあったとか。

12歳でアルフレッドハイスクールに入学。

インドの古い慣習により、13歳で商人の娘カストゥルバと結婚しました。

彼女とは一生を共にしましたが、後に少年結婚を悪しき伝統と非難しています。

イギリスへの留学

エリート家庭に生まれるも、台所事情はあまりよくなく、その上父親も亡くなりました。

そんな時、友に将来お金を稼ぐには、イギリスで法律を学ぶのがよいと勧められ、イギリスのモハンダスに留学しました。

当時留学というのは、エリートにのみ許された栄光でした。

家族が将来裕福な生活をするための投資として兄のラクシュミダスは、末っ子だったガンジーに自身の希望と期待を込めて支援したようです。

留学に際して母は、「肉・女・酒」を断つことを約束させました。

留学時代は懸命に勉強し、友たちからの誘惑にも負けず、学生の中でも一目置かれる優秀な学生となったようです。

また、母との約束の一つ肉断ちは、菜食主義の良い点を見出し、「菜食クラブ」を設立。

自伝の中に、菜食主義と宗教の発見は重大なものと語っています。

 

インドを独立へと導くガンジー

弁護士となりアフリカへ

イギリスで弁護士となったガンジーでしたが、不運なことに職にはつけませんでした。

一旦インドに帰った後、インドの会社と商業上の問題を抱えていたダダ・アブドゥラ社の企業顧問として、1年の約束で南アフリカに渡ります。

イギリス領だった南アフリカで直面したのは、イギリス人によるインド人への過度な人種差別でした。

ガンジーはこの状況を見過ごすことができず、20年南アフリカでインド人への人種差別と闘うことになったのです。

ガンジーは、南アフリカ滞在中に「非暴力」の大切さに気付きました。

インドでの非暴力・不服従運動

1915年に、やっとインドに、帰りました。

南アフリカでインド人差別に繋がる悪法の多くを撤廃させた、彼の功績を知っていた人々の歓迎ぶりは凄まじかったとか。

南アフリカでの体験より、国民議会派を中心とした「インド独立運動」に積極的に関わったのです。

1919年にイギリスはローラット法(インド政府が可決した治安維持法)を定め、独立運動派を制圧しようと試みました。

しかし、ガンジーは「非暴力と不服従運動(サティア・グラハ)」の指導者として、ストやイギリスの物を購入しないなど、暴力とは無関係の戦いをしたのです。

この「非暴力と不服従運動」は、何百人もの人々に支持され、インド全土に急速に広まりました。

並行して、貧困層への問題解決に乗り出し、インド産業を育てることにも尽力したのです。

その中の一つが、サティア・グラハ・アシュラム(共同農場)でした。

 

非植民地化の指導者ガンジー

独立に目覚めるインド人たち

次第にインドの人々の間でイギリスからの独立心が芽生え、強大な力となりました。

しかしイギリスは、植民地からの脱却は許すが、自治領とすることを提案してきたのです。

完全独立を目指していたインド人たちの怒りは頂点に達しました。

「塩の行進」とは

1930年ガンジーは弟子たちを引き連れ、ボンベイ州ダンディ海岸に向けて、400キロメートルものデモ行進を敢行。

これが有名な「塩の行進」です。

ガンジーたちの行進を止めようと、400人の警官が棍棒を振るって突入してきました。

でも、ガンジー一行は誰一人反抗せず、整然とデモ行進を続けました。

当時は、インド人による塩の製造を禁止されており、その抗議として海岸に向けてデモ行進をしたという事件です。

ガンジーの暗殺とインド独立

インド独立運動の中でガンジーは、このようなデモ行進の他、命がけの断食を何度も挙行しています。

遂にイギリスから独立を勝ち取ったのは、1947年の第二次大戦後のことでした。

イスラム教徒のパキスタンは1947年8月14日に、

ガンジーの属するヒンズー教徒は翌15日に分離独立しています。

イギリス連邦内の自治領としての独立だったのです。

しかも、ガンジーが望んだイスラムとヒンズー教徒の統一国家としての独立とはなりませんでした。

1949年11月26日に新しい憲法を制定し、1950年1月26日に施行され、インド共和国が成立しました。

経済的な面ではイギリスとの結びつきは続いたものの、政治的には完全に独立を果たしています。

残念なことにガンジーは、1948年にヒンズー教の過激派に暗殺されており、この時もうこの世を去っていました。

今も生き続けるガンジー

このような数々の偉業を成し遂げたガンジーには、マハトマ(大いなる魂)との名を、インドの詩聖タゴールから贈られたとされています。

ガンジーの思想は今も人々の中で息づいており、キング牧師やダライ・ラマ14世などが彼に倣って非暴力を世に訴えながら人種差別運動と戦っています。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。ガンジーについて、いかがでしたでしょうか。

ガンジーとは?

① 劣等生からエリート留学生へと成長した

② アフリカで直面した人種差別が、ガンジーの人生を変えた

③ 「非暴力と不服従運動」の指導者

と言えるのではないでしょうか。

その他にもガンジーにまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞご覧ください。

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