ガガーリンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

1961年4月12日。

ソ連の宇宙飛行士として人類で初めて宇宙に行った人物、

ユーリイ・ガガーリン

空を飛ぶことが好きな一人の若きパイロットに過ぎなかった彼は、

この日を境に、人類初の偉業を成し遂げた英雄として、

世界中にその名が知られるようになります。

こうして一躍時の人となったガガーリン。

しかしその栄光に満ちた日々は長くは続かず、

彼は34歳のとき訓練飛行中に墜落事故で死亡してしまいます。

ガガーリンとは、一体どんな人物だったのでしょうか。

今回はその激動の人生を辿っていきましょう。

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ガガーリンはどんな人?

プロフィール
ガガーリン

ガガーリン
出典:Wikipedia

  • 出身地:ロシア
  • 生年月日:1934年3月9日
  • 死亡年月日:1968年3月27日(享年34歳)
  • ソビエト連邦の軍人、パイロット、宇宙飛行士。人類で初の有人宇宙飛行士となった。

 

ガガーリン 年表

年表

西暦(年齢)

1934年(0歳)ロシアのモスクワ西方にある村クルシノで、労働者階級の両親の元に生まれる。幼少期に第二次世界大戦を経験した一家の生活は苦しく、10代のガガーリンは金属工場で見習いとして働く。その後、工業学校に通う。

1955年(21歳)パイトットを志し、オレンブルクの空軍士官学校に入る。

1957年(23歳)空軍士官学校を卒業。ノルウェー国境近くのムルマンスクにある基地に配属された。

1960年(26歳)ソ連の宇宙計画が本格化し、世界初の有人宇宙飛行が決まったとき、20人の候補者と共に訓練やテストを受け、最終選考で見事選ばれる。

1961年(27歳)4月12日、ボストーク1号の単独搭乗者として、世界初の有人宇宙飛行に成功。その後、ソ連の宇宙計画の広告塔として世界各地を訪問する。翌年には来日もしている。

1964年(30歳)約3年かけて世界中を回った後再び仕事に戻る。飛行技術を磨くため、ジュコフスキー空軍工学アカデミーの飛行訓練プログラムに参加する。

1968年(34歳)3月27日、教官のウラジーミル・セリョーギンと共にジェット戦闘機MiG-15UTIに搭乗し、訓練飛行を行っていた際墜落事故を起こし死去する。

 

ガガーリンの生涯

少年時代

1934年3月9日、ロシアのモスクワ西方に位置する村、

クルシノに生まれたユーリイ・ガガーリン。

労働者階級の両親を持ち、兄や姉もいた一家の生活は決して裕福なものではなく

幼少期のガガーリンはほとんど姉が面倒を見ていました。

温厚真面目、時にユーモアのある性格で知られているガガーリンは、

初等教育を受ける頃には既にその性格が表れていて、

はじめて空を飛ぶことに興味を持ったのもこの頃です。

飛ぶことに魅せられる

しかし第二次世界大戦の波に飲まれた一家は厳しい生活を余儀なくされ、

10代の頃のガガーリンは金属工場の見習いとして働くことになりました。

それでも、彼の真面目さと勤勉さが優秀な成績を生み、

もっと技術教育を受けさせようと思った工場側の計らいで、

彼はサラトフにある工業学校に入学することになります。

そこで所属したエアロクラブでの飛行体験に魅せられた彼は、

パイロットになることを決めました。

パイロットから宇宙飛行士へ

こうしてパイロットを志すようになったガガーリンは、

1955年にオレンブルグ航空士官学校に入学し、

その2年後にはソ連空軍のパイロットになりました。

卒業後初めて配属されたのは、ノルウェーの国境近くにあるムルマンスクの基地でしたが、

彼の優秀さはここでも劣ることなく、

1960年にソ連の宇宙計画がいよいよ本格化したときには、

宇宙飛行士の候補者リスト20人のなかに載ったのです。

ガガーリンは他の候補者と共に厳しい訓練とテストを受け、

最終候補者2名のなかに残り、その後見事宇宙行きの切符を手にしました。

ソ連の英雄

1961年4月12日、ボストーク1号に単独搭乗したガガーリンは、

バイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、地球の大気圏外を1時間50分弱で一周しました。

その後、無事に地球に帰還したガガーリンは人類初の宇宙飛行士として一躍時の人となり、

その名が世界中で知られるようになります。

その後の彼は、ソ連の宇宙計画の広告塔として、

約3年に渡り世界中を訪問することになりました。

そして再びパイロットの職務に戻ると、飛行機の操縦技術を磨くために、

ジュコフスキー空軍工学アカデミーの飛行訓練プログラムに参加します。

このときのガガーリンは、いつか再び宇宙を旅することを強く望んでいました。

突然の死

1968年3月27日。その日ガガーリンは教官と共に、

ジェット戦闘機MiG-15UTIに乗って訓練飛行を行っていました。

当初は30分間の飛行が予定されていましたが、離陸から12分が経った頃、

ガガーリンから管制塔に突然、引き返すという連絡が届きます。

そしてその連絡からほどなくして、2人を乗せた戦闘機はレーダーから姿を消しました。

ソ連当局は飛行機やヘリコプターを派遣し、捜索活動を開始。

その約4時間後、キルジャチ市近郊で戦闘機の残骸が発見されました。

墜落現場は悲惨な状態で、ガガーリンと教官の遺体を特定することは困難でした。

このときガガーリンは34歳。誕生日を迎えてから2週間と少し経った頃でした。

 

ガガーリンにまつわるエピソード

ここではガガーリンに関するエピソードを2つご紹介していきます。

人類初の宇宙飛行士にガガーリンが選ばれた理由

ソ連の宇宙計画に伴い、人類初の宇宙飛行士として選ばれたガガーリン。

いくら優秀だったとはいえ、一人のパイロットに過ぎなかった彼が、

人類初の試みを任されたのは一体なぜだったのか。

それにはやはり、いくつかの重要な理由がありました。

書き出してみると、

・低身長だったこと

・労働者階級出身だったこと

・心身ともに健康だったこと

主にこの3つが選抜される大きな決め手になりました。

まず身長については、乗る予定の宇宙船が小型なものだったため、

必然的に小柄な人物が対象となりました。

記録によればガガーリンの背丈は157cmでした。

次の理由については、社会主義国のソ連において英雄が労働者階級出身であるということは、

それだけで人々に歓迎される大きな意味を持っていたのです。

最後の理由に関しては、宇宙という未知の空間にたった一人で挑むことのできる、

孤独に対する強い精神力肉体的な強さが求められました。

これだけなら他にも多くの候補者がクリアした課題でしたが、

なかでもガガーリンだけが持っていた武器が、その笑顔でした。

どんなときも穏やかで人に好かれる笑顔を持っていたことで、

彼は幸運を手繰り寄せることができたのです。

宇宙飛行50周年目に公開された事故の結論

34歳という若さで突然この世を去ったガガーリン。

空や宇宙を旅することに魅了され、世界中から愛された英雄の突然の事故死は、

衝撃と共に様々な憶測を生みました。

しかし、長年謎とされてきた墜落事故の捜査の結論は、

ガガーリンの宇宙飛行から50年が経った2011年、ロシア当局により明らかにされます。

それは、「気象観測用ゴム気球との衝突を避けようと、急な舵を切ったことが関係している。」

というものです。

これにより機体に何らかのトラブルが生じて操縦ができなくなり、

らせん状に降下してしまったのだろう、という見解です。

しかしこの曖昧さや長年調査結果を機密指定にしていたことなどから、

事故の本当の原因は未だに隠されているのではないか、という意見が多くあります。

 

きょうのまとめ

今回は、人類初の有人宇宙飛行でその宇宙飛行士として、

初めて宇宙に行った人物、

ユーリイ・ガガーリンの生涯をご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ガガーリンとはどんな人物だったのか、簡単にまとめると

① ソ連の宇宙計画に伴い、人類で初めて宇宙に行った空軍パイロット。

② 低身長で労働者階級出身、そして常に絶やさない人に好かれる笑顔が、ただのパイロットから英雄へと変わる決め手になった。

③ 再び宇宙へ行くことを夢見ていた矢先、34歳という若さで飛行機の訓練飛行中に墜落死した。

残された写真を見てみると、その多くが笑顔であふれているガガーリン。

人好きのするその素朴さが彼自身の幸運を引き寄せたのです。

 
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