良家の出身だった藤原純友でしたが、中央での出世の夢は叶わず、地方に土着して海賊となりました。
では、その純友の一族がどれほどの良家だったのか、
そして藤原純友の乱後の子孫について見ていきましょう。
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藤原純友の華麗な出自
藤原純友は893年筑前守・藤原良範の息子として生まれました(出生年については諸説あり)。
藤原北家の祖・藤原長良の子には関白になった藤原基経とともに遠経がいます。
遠経 → 良範 → 純友 です。
つまり、関白・藤原基経は純友の大叔父であり、二条皇后となった高子は大叔母です。
彼らの家系・藤原北家は藤原一族の中でも最も繁栄した家で、純友はまさにその血筋にありました。
尊卑分脈による藤原純友の家族と直系子孫
尊卑分脈という源・平・藤・橘など日本の主要な諸氏の系図によれば、純友は右大弁藤原遠経の孫で、大宰少弐・藤原良範の三男です。
母親が誰かの記録はありません。
良範には7人の息子がおり、純友には、乱で一緒に戦った弟に四男の藤原純乗がいます。
純友以外の兄弟についての子孫の記録は残っていません。
唯一あるのが、純友の子孫の系図です。
息子は3人。
有信、紀年、伊王丸です。
伊王丸は元服前の名前だと思われますが、元服後の名はわかっていません。
ただし、この伊王丸のみから8代子孫が続いていることが系図でわかります。
8代目には2人の男子がおり、それ以降の子孫の記録は残っていません。
藤原純友の子孫たちと言われる人々
尊卑分脈の系図は全てを網羅していない可能性もあります。
他にも純友の子孫の伝承を持つ人々がいるのです。
蒲池氏の可能性
福岡県柳川市には、蒲池城を純友の弟・純乗が築き、橘公頼は柳川城を築いて対抗したとされる伝承があります。
そこから蒲池城に拠る蒲池の領主は藤原純乗の一族との説もあります。
しかし、その当時はまだ柳川城がなかったはずでした。
そのため、橘公頼が藤原純乗を迎え撃ったのが蒲池城だと考えられます。
しかも近隣には藤原純友の追討に功のあった大蔵春実の子孫が土着しています。
そのため純友の子孫がその地で勢力を持ったとは考えられないとも言われます。
有馬氏・大村氏の可能性
後世、有馬氏・大村氏らは藤原純友の子孫と称しました。
戦国時代に肥前国一帯に一大勢力を広げ、さらにポルトガルとの交易で最盛期を築き上げた有馬氏。
藤原純友の末裔の可能性があると言われていますが詳細は分かっていません。
また、大村氏も家系図や史書によれば、先祖は藤原純友の孫・藤原直澄(賴澄)とされています。
直澄が994年に伊予から肥前に移り、肥前大村を本拠として領主となったのが始まりだということですが、諸説あり、決定的な資料は残されていません。
純友→スミトモ→住友?
旧住友財閥の住友家も藤原純友と関連があるという話しがあります。
住友家はもともと愛媛県の出身で、純友の子孫だというのです。
しかし、住友家が桓武平氏の子孫だとする史料はあるようですが、藤原北家を祖とする純友との関連は疑問視されています。
今でも愛媛県には住友の末裔と名乗る家が多く残るそうです。
彼らが本当に藤原純友に関わるという証拠は見つかっていません。
きょうのまとめ
今回は、藤原純友の家系と子孫についてご紹介いたしました。
簡単にまとめると
① 藤原純友は藤原一族の中でも一番栄えた北家の出身
② 尊卑分脈によると純友は7人兄弟の3男。3人の息子のうち伊王丸の子孫が8代続いたが、その後は不明
③ いくつか子孫を語る家系はあるが、いずれも決定的な証拠が残されておらず不明
残念ながら、明確な純友の子孫を現在辿ることはできません。
しかし、8代も続いた純友の息子からの系統があるので、その中から子孫が広がっていた可能性はありそうです。
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