摂政・藤原良房。応天門の変に笑った男

 

866年閏3月10日。平安宮の応天門が炎上しました。

これが政治事件「応天門の変」の発端です。

この火事をきっかけにして、太政大臣だった朝廷の有力者、

藤原良房ふじわらのよしふさが邪魔者を排除し、藤原氏のさらなる繁栄を強固にしていった象徴的な事件です。

 

事件の背景には・・・

藤原良房

藤原良房(菊池容斎画『前賢故実』より)
出典:Wikipedia

この事件の政治的背景を理解しましょう。

当時、政権のトップ4は以下のようになっていました。

太政大臣:藤原良房

左大臣:源信みなもとのまこと
 臣籍降下した嵯峨天皇第7皇子

右大臣:藤原良相ふじわらのよしみ
 良房の弟

大納言:伴善男とものよしお

④の大納言・伴善男は、仲の悪い②左大臣・源信の失脚を願っていました。

彼が失脚すれば③の右大臣・藤原良相が②のポジションに移り、自分が③つまり右大臣になれると考えていたようです。

伴氏の祖先は古代から続く大伴氏。

大和朝廷の中枢で活躍した名門氏族でした。

一時衰退していましたが、伴義男が①の藤原良房に取り入って勢いを盛り返しつつあり、さらなる氏族の繁栄を目指していたのです。

共に政治を執り行う仲でありながら、同時にライバル同士だった4人。

そのトップが藤原良房でした。

 

応天門の変とは

応天門の火災を発端にして、藤原氏が古代からの名氏族・伴氏ばんし(もと大伴氏。淳和天皇のいみなと重なるのを避けて氏を改めた)や紀氏きしを排斥していった政治事件全体のことを「応天門の変」と呼びます。

事件の発端・応天門の炎上

866年うるう3月10日の夜中のこと。

平安宮大内裏だいだいり朝堂院ちょうどういんの正門である応天門が炎上しました。

朝堂院とは、即位式や大嘗祭だいじょうさいといった朝廷の重要な儀式が行われる場所で、応天門は平安宮のシンボルともいえる大きな門でした。

門は火の気のあるような建造物ではありませんから、この火災は明らかに放火によるもの。

都も朝廷も大騒ぎとなり、この火災について調査が行われることになりました。

大納言・伴善男による密告

すると、④大納言の伴善男が、③右大臣・藤原良相に「放火犯は源信だ」と密告。

②左大臣・源信は伴氏を呪うために、もともと伴氏(大伴氏)が造営した応天門を焼いたというのです。

そこで③藤原良相は、④源信の邸宅を兵で包囲します。

もし、左大臣の源信が失脚すれば藤原良相にとって左大臣に昇格する大きなチャンスでもありました。

しかし、①の太政大臣・藤原良房は、自分も清和天皇も知らないところで兵を派遣する事態になっていたことを知り、すぐに弟の③藤原良相の兵をストップ。

源信は、臣籍降下したとはいえ元は天皇の皇子です。

朝廷としてもうかつなことはできません。

結局良房の弁護と、源信の天皇への直訴の甲斐あって源信は無実となりました。

事件は急転

ところが、8月に事件は急転。

役人の大宅鷹取おおやけのたかとりが、「応天門放火の真犯人は伴善男父子だ」と告発したのです。

もちろん伴善男は否認しますが、取調べ中に鷹取の娘が善男の従者2人によって殺害される事件が発生。

ますます善男が怪しまれます。

さらに従者2人は、なんと応天門の放火への関与も自供したのです。

藤原良房を中心とする朝廷は、伴善男と息子の伴中庸とものなかつねらが応天門放火犯だと断罪。

本当に事件の真犯人なのかが明確にならないうちに、彼らの荘園や財産を没収して流罪としました。

事件に関連したとされる伴氏(大伴氏)・紀氏らは親族まで連座となり、古代からの2大名族は没落してしまいました。

良房の一人勝ち

この事件後、無実ながらも精神的にボロボロになった②源信は3年後の869年に亡くなりました。

失脚こそ免れた③藤原良相も朝廷での影響力は弱まり、翌年に突然倒れて死亡します。

結局政界トップ4のうち、事件の処理を行い、他氏を排斥することに成功した藤原良房だけが一人勝ちしたわけです。

しかも良房は、事件の発生後に清和天皇から正式に皇籍以外の者として人臣で最初の摂政となることを認められおり、強権を発動して事後処理ができたのです。

 

国宝『伴大納言絵詞』とは

この応天門の変を題材にした平安時代の絵巻物が、国宝伴大納言絵詞ばんだいなごんえことばです。

『源氏物語絵巻』『信貴山縁起絵巻しぎさんえんぎえまき』『鳥獣人物戯画ちょうじゅうじんぶつぎが』と並ぶ四大絵巻物の一つです。

絵詞に表現されている内容とは

伴大納言絵詞(部分、応天門炎上)

伴大納言絵詞(部分、応天門炎上)

応天門の変から約300年経った、後白河法皇の時代に藤原氏系列の宮廷絵師・常磐光長ときわみつながによって描かれたと言われます。

冒頭の詞書き部分は失われていますが、

・炎上する応天門

・無実の罪で捉えられる左大臣・源信の様子

・伴善男を捉える検非違使けびいしの活動

・さまざまな平安時代の庶民や貴族の様子

を伝える史料として大変貴重なものです。

謎の男

伴大納言絵詞(部分、炎上する応天門を眺めているかのような伴善男と思わしき人物)

絵巻物の中には、放火の首謀者ではないかと考えられる男の絵も描かれています。

燃え上がる応天門に大騒ぎする庶民や貴族たちから少し離れ、内裏の清涼殿せいりょうでんの前庭にぽつんと佇む一人の男。

黒い貴族の装束をつけた男の視線は、燃えさかる応天門に向けられているのです。

これは一体誰だったのでしょう?

<出光美術館 国宝『伴大納言絵詞』:東京都千代田区丸の内3-1-1帝劇ビル9階>

 

きょうのまとめ

今回は応天門の変と藤原良房との関わりについてご紹介しました。

簡単なまとめ

① 応天門の変によって当時の朝廷の権力者のトップ4のうち勝ち残ったのは太政大臣だった藤原良房のみ

② 応天門の変を利用して良房は伴氏、紀氏という古代からの名家を排斥することに成功

③ この事件をきっかけに良房は人臣では最初の摂政に就任した

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku