平安時代初期に起きた事件「薬子の変」。
昨今は「平城太上天皇の変」とも呼ばれるこの事件の中心人物に、
平安時代の屈指の美魔女・藤原薬子がいます。
実はこの事件が原因で、平安の色男・在原業平の人格、人生に大きな影響を与えた可能性があることをご存知ですか?
事件の内容、そして影響について見ていきましょう。
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薬子とは誰?
平安初期には、藤原鎌足の子である不比等の4人の息子たちを祖とした藤原四家が栄えました。
藤原薬子は、そのうちの式家出身の女性です。
薬子は、皇太子時代の平城天皇の妃として娘を宮中に入れますが、母親である彼女のほうが平城天皇の寵愛を受けるようになりました。
彼女は平城天皇を通じて政治に介入し、兄の仲成と共に専横を極めて周囲の人々から恨まれたそうです。
かなり年下の平城天皇を虜にしたことから、さぞかし美人だったのだろうというのが、彼女が平安時代のクレオパトラなどと呼ばれる由縁です。
薬子の変とそのいきさつ
上皇と天皇の政権争いと、上皇復位を狙う薬子と仲成
藤原薬子が取り入った平城天皇は、身体が弱く、当時は皇子たちもまだ幼かったのです。
平城天皇は、薬子とその兄・仲成の反対を聞かずに弟に譲位し、嵯峨天皇が誕生しました。
平城天皇は平城上皇となり、平城京で隠居しました。
ところが、即位した嵯峨天皇が、かつて平城上皇が設置した制度を改め、廃止したり新たに役職を設けたりしたのが原因で、平城上皇は立腹。
まるで朝廷が平安京と平城京にできたような「二所朝廷」と呼ばれるほど対立してしまいました。
もともと譲位に反対だった薬子と仲成兄妹は、大喜びです。
平城上皇を復位させて再び権勢を手に入れようと対立を助長させます。
当時は上皇にも政治を行う権利があり、その上薬子は女官のトップである尚侍だったので、権力を上手く利用して平城上皇を復位させることを画策しました。
薬子の変
810年の年明けに嵯峨天皇が病で倒れます。
天皇との関係がますます悪化している上皇は、平城京への遷都の詔勅(上皇や天皇の公的な意思表示)を出します。
嵯峨天皇は一度従うフリをしながらも、最終的には遷都を拒否。
そして伊勢・近江・美濃の関と国府を封じ、藤原仲成と藤原薬子の官職剥奪、上皇側についた文室綿麻呂を処罰しました。
東国で挙兵を画策した上皇勢ですが、関が封鎖され身動きできません。
嵯峨天皇に指示を受けた坂上田村麻呂は、もと戦友だった文室綿麻呂の処罰を解く許しを受け、2人で上皇一派を追跡。
すぐに藤原仲成を射殺します。
関東への脱出を諦めた平城上皇と薬子は再び平城京に戻り、上皇は剃髪して出家、そして薬子は毒をあおって自殺したのです。
正確には薬子の変ではない
かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたと考えられ、「薬子の変」という名称が一般的だった事件です。
しかし、実際は太上天皇制度(太上天皇とは上皇のこと)によって上皇でも王権をもつことができたことが原因の事件です。
首謀者は薬子ではなく平城上皇だとの見解が広がり、現在は「平城太上天皇の変」という呼び名に変わりつつあります。
ただ、まだ「薬子の変」の名のほうが通りもいいようです。
薬子の変と在原業平の関係
そんなドロドロした権力争いが、薬子が亡くなってから15年後の825年に生まれた在原業平にどのように影響したのでしょうか。
在原業平の血筋と人物像
在原業平は、平安時代初期から前期の貴族・歌人です。
兄の行平とともに鷹狩りの名手で、『日本三代実録』には、「美男子であり、好き勝手な行動を取る人物で、漢詩や漢文の教養はないけれど、和歌の才能がある」と記録されています。
彼は、歌物語として知られる『伊勢物語』の主人公のプレイボーイだとも考えられています。
物語では、母親が藤原氏でないために帝位につけなかった文徳天皇の第一皇子・惟喬親王との交流、清和天皇女御となった藤原高子、惟喬親王の妹である伊勢斎宮・恬子内親王らしき高貴な女性たちとの許されぬ恋が語られています。
反体制的な色男の貴公子というのが業平の持つイメージです。
そんな彼がどう薬子の変と関わるのかといえば、実は在原業平はこの事件の当事者の一人、平城上皇の孫だったのです。
さらに言えば桓武天皇の曾孫。
血筋から見れば、貴公子も貴公子という、非常に高貴な身分の人物でした。
薬子の変が業平の人生にもたらした影響
結局、薬子の変のあと平城上皇は力を失い、皇統は嵯峨天皇の子孫へ移ってしまいました。
もう平城上皇の系統は傍流扱いです。
そのため、826年には業平の父親である阿保親王によって臣籍降下した業平は、兄の行平と共に在原姓を名乗ることになったのです。
もちろん、それでも皇族の血を引く在原業平は、蔵人頭(蔵人所の長官)などの要職にも就き、朝廷の中枢部分から外れきったわけではありません。
しかし、「もしも薬子が平城上皇に取り入って上皇の復権をそそのかさなかったら」「もしも薬子の変がなかったら」・・・どうでしょう?
在原業平は、天皇家の中心もしくは近い存在として全く違う人生を送っていたかもしれません。
彼のどこかアウトローを感じさせ、奔放な恋愛をした色男ぶりは、高貴な血を引き継ぎながらも皇室のメイン系統から外れてしまった空しさや不条理さによるものだった可能性があります。
ちょっと影のある貴公子・在原業平の生涯は、平城上皇とその愛人・藤原薬子による「薬子の変」によってその根幹が形作られたものだったのです。
きょうのまとめ
今回は、平安時代に起きた上皇対天皇の対立事件「平城太上天皇の変」こと「薬子の変」と、その事件が平安の恋多き貴公子・在原業平に及ぼした影響についてご紹介しました。
簡単にまとめると
① 薬子の変は、平城上皇が復位することを画策し、嵯峨天皇と対立した事件
② 平城上皇を虜にした女・藤原薬子は薬子の変の最後に毒をあおって自殺、上皇は出家した
③ 薬子の変がなければ、アウトローな色男・在原業平は皇族のままの全く違った人生を歩んでいたかもしれない
歴史に「たら・れば」を考えても空しいものです。
しかし、美魔女・薬子が平城上皇を誘惑しなければ、「薬子の変」はなかったかもしれません。
もしもその事件がなかったら、もしも事件で上皇が勝っていたなら、在原業平が臣籍降下して一貴族としての人生を送らなかったかも・・・と妄想するのも楽しいではありませんか。
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