チェ・ゲバラとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

キューバ革命を成功に導き、

その後もアフリカなど世界各地で革命家として生きた人物、

チェ・ゲバラ

格差や独裁、不条理を嫌った彼は、

社会主義を目指すも自身が権力を握り占めることはなく、

生涯苦しむ者たちの声に耳を傾け続けました。

今回はそんな英雄、チェ・ゲバラの人生に迫ります。

 

チェ・ゲバラはどんな人?

プロフィール
チェ・ゲバラ

出典:Wikipedia

  • 出身地:アルゼンチン共和国 ロサリオ市
  • 生年月日:1928年
  • 死亡年月日:1967年10月9日(享年39歳)
  • キューバ革命を成功に導く。社会主義を目指した革命家。

 

チェ・ゲバラ 年表

年表

西暦(年齢)

1928年(0歳)アルゼンチンのロサリオ市に生まれる。本名、エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ。

1930年(2歳)喘息を発症し、家族でコルドバ市に移住するが、以後生涯にわたって苦しむことになる。

1945年(17歳)ブエノスアイレス大学の医学部に入学。

1950年(22歳)友人と共にオートバイで南米放浪の旅に出る。2年後、医師免許を取得し卒業した後に再び友人と南米の旅へ。

1953年(25歳)フィデル・カストロとメキシコで初対面。

1956年(28歳)フィデル・カストロをリーダーとする反乱軍82名と共にキューバへ。

1958年(30歳)一度は20人弱になった反乱軍も数百人に増え、支援派の多数の市民の加勢もあり、激戦の末に首都ハバナへの道が開く。

1959年(31歳)バティスタ政権との攻防を経てキューバ革命を成功させる。キューバの市民権を獲得後、国立銀行総裁に就任。

1961年(33歳)各国への外遊を行う。帰国後、工業相に就任。

1964年(36歳)ニューヨークで開催された国連総会にキューバ主席として出席。

1965年(37歳)アフリカのコンゴ反乱軍の支援のため、コンゴへ出発。ゲリラ戦は失敗に終わりキューバに帰国。

1966年(38歳)ボリビアでの革命支援のため、ボリビアへ出発。

1967年(39歳)ボリビア軍の兵士に捕らえられ、ボリビアとアメリカ政府の指示により10月9日、処刑される。

 

理想に生きた革命家 チェ・ゲバラの生涯

革命家とは縁遠い幼少期

1928年、アルゼンチンの比較的裕福な家庭に生まれたチェ・ゲバラ。

ちなみにこの「チェ」というのは、

彼が大人になってからつけられたスペイン語由来のあだ名で、

本名はエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナといいます。

未熟児として生まれた彼は幼い頃に肺炎を患い、

2歳のときに発症した喘息と共にその後の人生を歩むことになります。

見聞を広めた青年期

彼が革命家として生きるおそらく最初のきっかけとなったのが、

大学に在学中、友人と共にオートバイ南アメリカを放浪したことでした。

青年ゲバラはその旅の道中、

各地で貧しい生活を強いられた人々や、重い病気に苦しむ人々を目の当たりにし、

裕福な家庭に育った自分が知らなかった別の現実を知るようになったのです。

大学を卒業した後に再び南米放浪をした彼は、

革命が進む国の姿に感銘を受け、徐々に社会主義にのめり込んでいきました。

革命家チェ・ゲバラの誕生

青年ゲバラが「チェ・ゲバラ」としてその名を世界に轟かせることになるのは、

1956年~1959年に行われたキューバ革命の影響でした。

革命以前のキューバはフルヘンシオ・バティスタが政権を握り、

アメリカの影響を強く受けた独裁政権を敷いていました。

そしてこのバティスタ政権の打倒をかかげていたのが、

キューバ人のフィデル・カストロという人物。

ゲバラは1955年、革命に失敗しメキシコに亡命していたカストロと対面し、

その場で意気投合します。

アルゼンチン人のチェ・ゲバラは、キューバの社会主義国家実現に向け、

カストロと共に革命家として反乱軍を導いたのです。

英雄のその後

キューバ革命を成功させ、一躍英雄として知名度を上げたチェ・ゲバラ。

その功績と献身的な姿勢が認められ、キューバの市民権を与えられます。

その後、国立銀行の総裁などいくつかの要職の地位を与えられ、

政治家として各国への外遊も行いました。

しかし、理想主義的な面の強かったチェ・ゲバラの思想は、

現実的な政治を行う上で様々な波紋を呼び、

1965年には与えられた地位を捨て自らキューバを離れます。

その後は、再び革命家としてアフリカのコンゴ革命の指導をするも失敗。

そして1966年、人生最後の革命地となったのが南米ボリビアでした。

しかしそこでもチェ・ゲバラ独自の理想主義的な革命理論は深い賛同を得られず、

盟友カストロからの支援も途絶え気味になり、予想以上の苦戦を強いられることになりました。

そして1967年10月、チェ・ゲバラはボリビアの兵士に捕らえられ、

アメリカ政府などの指示により銃殺されます。

キューバ革命の英雄と呼ばれた彼は、39歳でその生涯を終えました。

ちなみに処刑される間際に放った彼の言葉は、有名な名言として現在にも残っています。

 

関連記事 >>>> 「チェ・ゲバラ キューバ革命の英雄が遺した名言」

 

チェ・ゲバラにまつわるエピソード

ここではチェ・ゲバラの知られざるエピソードを

3つご紹介していきます。

医者だった!?

アメリカ的な軍事独裁政権を批判し、キューバ革命を成功させた革命家、

というイメージが強いチェ・ゲバラ。

しかし実は、彼は母国アルゼンチンの大学で医学部を卒業していて、

医師免許を持っていました。

そして革命家としての活動を始めてからも、現地で医者として働いたり、

戦闘の末負傷した兵士たちの手当てをしたりというように、

開業こそしませんでしたが彼は医者としての顔も持っていたのです。

放浪記は書籍化されている

チェ・ゲバラが青春時代に二度にわたって行った南米旅行。

貧困や病気に苦しむ人々を目の当たりにしたり、

新鮮な景色に触れる刺激的なオートバイでの旅は、

喘息持ちの医学生だった青年ゲバラの見聞を広げ、

後の革命家としての魂を目覚めさせる重要なきっかけとなりました。

彼がこの放浪の旅で綴った日記が現在では書籍化され、

紀行文学として私たちも読むことができます。

旅の過程で徐々に革命家たちと交流を深め、やがてキューバ革命に参加する流れを、

チェ・ゲバラ自身の言葉で知ることができます。

日本を訪問していた

キューバ革命を成功させた後の1959年7月、

チェ・ゲバラはキューバの使節団と共に日本を訪れています。

そして各地の工場など、当時の進歩し続けていた日本の技術現場を見学し、

都内では通産省との会談も行いました。

その後大阪に滞在した際、チェ・ゲバラは広島がさほど遠くないことを知り、

予定変更などを挟んで急きょ広島を訪れています。

そして県の職員による案内のもとに原爆資料館や原爆病院を訪れ、

平和記念公園内の死没者慰霊碑に献花しました。

県知事とも会談したチェ・ゲバラは後に、広島の現状をキューバの人々に伝え、

キューバの教育現場では現在でも日本に投下された原爆について取り上げられています。

 

きょうのまとめ

今回は、キューバ革命を成功させ社会主義国家の実現を目指した革命家、

チェ・ゲバラの人生についてご紹介しました。

いかがでしたか。

最後に、チェ・ゲバラはどんな人物だったのか簡単にまとめると

① 反バティスタ政権をかかげるフィデル・カストロと共に、キューバ革命を成功に導いた革命家

② キューバ革命成功後、市民権を獲得した後に要職に就くが再び革命家として各地を回り、ボリビアで活動中捕まり処刑される

③ 社会主義国家の実現を目指し、革命家として生きるも理想主義者の面が強かった

自身の理想主義的な側面を肯定し、

最期まで革命家として堂々と生き抜いたチェ・ゲバラ。

その生き様に憧れを抱く者は、

彼の死後50年以上たった今でも世界中で後を絶たないのです。

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

1 × 5 =