藤原道長が活躍していた頃、
朝廷には「藤原氏」と呼ばれる貴族が沢山いました。
ややこしくなかったんでしょうか?
そもそも藤原氏という家系はどこからどう道長に繋がり、
その後どうなったのでしょう。
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藤原道長の家系図
藤原道長の家系図です。
藤原氏の発展
藤原氏の平安時代の隆盛は、そのずっと昔からの繁栄の努力のたまものでした。
藤原氏の最初の人
藤原氏の起源は飛鳥時代にまで遡ります。
645年に乙巳の変(もしくは大化の改新)の立役者だった
中臣鎌足こそ藤原氏の起源です。
その功で中大兄皇子から鎌足が死の直前に藤原の姓をもらい受けたのが始まりでした。
鎌足から道長へ
鎌足の代の後に「選別」ができました。
鎌足の子、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗っても良いとされ、太政官の官職に就くことができるというものです。
つまり不比等が藤原氏の実質的な家祖。
その不比等の4人の息子たちが
「北家」
「式家」
「京家」
とそれぞれ4つの家系に分かれました。
北家の始祖、藤原房前から数えて5代目の良房は人臣で初めて摂政になり、その養子である基経は日本で初めて「関白」になっています。
こうして藤原北家の中でも摂政や関白を世襲していく家系が特に「摂関家」と呼ばれました。
基経のひ孫、藤原伊尹が摂政就任1年で死没して道長の父親、兼家が次の摂政になります。
道長は兼家の五男。
もともと道長には道隆、道兼という優秀な兄がいましたから出世は望めないと考えられていました。
ところが、その兄二人ともが病死。
甥にあたる藤原伊周との政争にも勝って、道長の誕生当時には想像もされなかった藤原氏のナンバーワンの地位をものにしました。
道長の出世の経緯
その後は娘たち三人を天皇の后にし、のちにさらに一人の娘を后にすることで結果的に四人の天皇の外祖父となって摂関政治の基盤を固めます。
そして道長とその息子頼通で藤原氏の栄華は頂点に達します。
しかし、道長から数えて5代目の忠実からは院政が強くなり、勢力は弱まってしまいました。
五摂家の藤原氏
平安後期の京では武家が台頭してきて平氏・源氏の時代となります。
源氏によって鎌倉幕府が開かれるころになると、子孫は分かれて五摂家が成立。
公家のトップとしての家柄はこの五家が独占し、それ以降は摂政・関白はこの五摂家からしか出ていません。
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と養子の豊臣秀次はうまく藤原氏を利用し、関白職に就任して地位を活用しました。
その後、明治維新まで藤原氏が歴史の表舞台に立つことはなく、摂関政治は消滅しましたが、藤原氏の血脈は続いていきます。
藤原氏トリビア
道長に繋がる藤原氏の家系に関する雑学です。
系図の中の平安藤原セレブリティ
ここでは政治的な貢献度とは関係なく、ちょっとミーハーに目を引く藤原氏の有名人をピックアップしてみましょう。
藤原頼通:
道長の息子。父親と共に摂関政治の頂点を極めました。道長の別荘・宇治殿を平等院鳳凰堂に改修。
藤原公任:
一条天皇時代に活躍した四納言の一人。和歌、漢詩、管弦に優れた万能アーティスト。
藤原実資:
『小右記』を書いた藤原道長のライバル。有職故実に非常に詳しく、平安朝の良識人ですがプライベートではちょっと好色なんです。
藤原実方:
平安中期のプレイボーイ。清少納言と交際関係があったとも。20人以上の女性との交際があり、『源氏物語』の光源氏のモデルの一人とも言われています。
紫式部:
『源氏物語』『紫式部日記』の著者。藤原北家の血をひく作家は誇り高き才女です。
伊勢:
平安時代の女歌人。三十六歌仙の一人。藤原北家の血筋の恋多き情熱家。
今に続く藤原氏
有名なところでは、島津家に関連する近衛家、明治維新以降も京都に住んでいる冷泉家などが藤原氏の子孫として現代に続いています。
実は、日本人の名字で藤原さんはもとより、伊藤さん、佐藤さん、加藤さん、というように○藤とつく名字は藤原氏の末裔である可能性があるそうです。
多くの藤原氏を区別するために領地や職業などに「 藤 」をつけて名乗ったのが始まりとか。
おわりに
一時期日本の政治界を席巻した藤原氏。
その血筋は現代にも続いています。
あなたの名字に藤がついていれば、広大な藤原氏の家系図のどこかに繋がる家柄なのかも・・・と考えるのもロマンがあっていいですね。
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