江藤新平は、維新の十傑、佐賀の七賢人の一人に数えられています。
そう呼ばれる江藤新平とは、どんな活躍をした人物だったのでしょうか。
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江藤新平はどんな人?
- 出身地:肥前国佐賀郡八戸村(現・佐賀県佐賀市八戸)
- 生年月日:1834年3月18日
- 死亡年月日:1874年4月13日(享年41歳)
- 戊辰戦争で活躍後、維新の十傑の一人として明治新政府の骨格を作り上げ、日本に「民権」という概念を取りいれた。その急進的なやり方に政府内で保守派と対立し、佐賀の乱を起こした逆賊と見なされて刑死した。
江藤新平 年表
西暦(年齢)
1834年(1歳)江藤助右衛門の長男として八戸村に生まれる
1845年(12歳)藩校弘道館に入学
1953年(20歳)儒学・国学者の枝吉神陽の私塾に学ぶ
1856年(23歳)「図海策」を書き、開国論を唱える
1862年(29歳)脱藩し京都へ。のち肥前に戻り、謹慎を命じられる
1867年(34歳)蟄居を解除され藩政に戻る。のち京都で活躍を始める
1868年(35歳)戊辰戦争で東征大総督府軍監に任命される。開城後の江戸城で文書を接収。東京遷都を建白
1869年(36歳)佐賀藩権大参事となり副島種臣と藩政改革を行う
1872年(39歳)司法卿となり法制公布施行するなど、近代化政策を推進
1873年(40歳)参議となる。征韓論に敗れて参議を辞任
1874年(41歳)佐賀の役。逃亡中に土佐にて捕縛。斬首
江藤新平の生涯
残された肖像写真からは、無愛想で何を考えているのかわからないような表情の江藤新平。
しかし、貧しい少年時代から培ってきた彼の中身は生真面目で高潔そのものであり、その頭脳明晰さは、まるでカミソリのような鋭い人物でした。
貧しくとも頭脳明晰な若者
江藤新平は、佐賀藩の下級武士の長男でした。
人並みはずれた頭脳を持っていましたが、貧しさで学費が払えず、藩の援助で藩校・弘道館に学びます。
経済的な理由で進学せず、副島種臣の兄・枝吉神陽の私塾で尊王攘夷論に傾倒。
大隈重信(内閣総理大臣、早稲田大学創立者)、副島種臣 (外務卿、書家)、大木喬任(初代文部卿、第2代司法卿)らとともに神陽が結成した「義祭同盟」に参加しました。
1856年23歳で江藤が著した意見書『図海策』では、民衆生活の尊重を基本とする理路整然とした開国論を展開しました。
やがてその考えは倒幕へと進んでいきます。
脱藩から新政府参画へ
佐賀藩の藩政改革の中で頭角を見せていた江藤でしたが、28歳の時に脱藩して京都へ向かいました。
長州藩の桂小五郎や伊藤博文、公卿・姉小路公知らと交流した後、帰藩。
本来、脱藩は死罪に処されますが、江藤の才を惜しんだ前藩主・鍋島直正によって無期限の謹慎に軽減されました。
1867年の大政奉還による江戸幕府消滅後、江藤の謹慎が解除され、彼は藩政に復帰します。
1868年の王政復古の大号令で明治新政府が誕生すると、佐賀藩から副島種臣と共に京都へ派遣されました。
江藤の活躍と国の骨格づくり
江藤は文の人であり、武の人でもありました。
戊辰戦争では江戸軍監(東征大総督府軍監)となり、江戸無血開城後には城内の文書類を接収し、当時の法令を読み解きました。
また、旧幕臣による上野の彰義隊を瓦解させる活躍も見せています。
始動したばかりの明治政府にとって、江藤の先見性と鋭い理論はなくてはならず、彼は民政、財政、都市問題を担当。
江戸は江藤の献言によって東京と改称されました。
一度佐賀に帰郷したものの、すぐまた中央で近代的集権国家作りに尽力しています。
1872年には、初代司法卿(現在の法務大臣・最高裁長官・国家公安委員長に相当)に就任。
その後も参議などの役職を歴任し、
・学生制度の基礎固め
・警察制度整備
・司法制度整備
・娼妓解放令
などの近代化政策を進めました。
中でも、「民権」という概念がなかった時代に民の権利を守り、誰でも公平な裁判ができる制度の構築は当時画期的なものでした。
江藤は元来の高潔と生真面目さで、同じ政府内の他の要職に就く人々にも厳しく、山縣有朋や井上馨らの汚職事件を追求して辞職にまで追い込むほどでした。
しかし、同時に彼の性急な改革と厳格な目は、政府内の大久保利通を中心とする保守派の反感も買ってしまいました。
佐賀の乱、そして刑死
1873年、朝鮮出兵を巡る征韓論問題で政府は揺れ、江藤新平は西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣らと共に参議を辞し、下野(民間に戻ること)して佐賀に帰りました。
当時、世間では不平士族たちが不穏な動向を見せており、江藤の故郷佐賀でも同様でした。
彼の帰郷の理由は、地元士族たちと話し合いで問題解決を試みようと思ったからでした。
ところが大久保利通は、江藤の下野を確認するや否や、まだ何もしていない佐賀士族に対する追討令を発令。
その明治政府の動きに挑発され、江藤をリーダーとした佐賀の士族たちが立ち上がって、佐賀の乱が始まりました。
しかし、政府と佐賀士族では軍力の差は大きく、比較になりません。
江藤は、同時期に明治政府を辞した鹿児島の西郷隆盛に加勢を頼みますが、それも断られます。
そして、ついに逃亡先の高知で捕まりました。
佐賀の役は完全に佐賀士族の敗北。
司法制度を整えた張本人のはずの江藤新平は、まともな裁判も受けられないまま公開処刑の斬首となりました。
江藤新平と大久保利通の対立
明治政府内での江藤新平と大久保利通との対立は、佐賀の乱の決起以前から明白でした。
政府の政策として、大久保利通はドイツ的な軍国主義を進めたのに対し、江藤は国民を第一に考えた人権を重視し、フランス的な人民主義を推していました。
さらに江藤は、信念と真っ直ぐな性格で、制度の早期改革や、政府内の不正の追及などをズバズバと実施したのです。
しかし、国家としての理想が違う上、不正の追及をして、自ら明治政府を貶める江藤の行為は、保守派の大久保利通には許せませんでした。
信念と信念がぶつかった時、政治家としての立ち回りと戦術は、江藤よりも大久保のほうが一枚上手だったのです。
そのため、江藤は佐賀の乱の首謀者として逆賊の汚名を着せられ、刑死しました。
その大久保利通も、数年後には不平士族らにめった刺しにされ、壮絶な最期を迎えます。
江藤新平の墓所
明治政府の近代化に尽力したはずの江藤新平でしたが、佐賀の乱に敗れました。
しかも賊名を着せられて公開処刑の末、3日間のさらし首という残酷な処分を受けることになっています。
しかし、1889年には賊名を解かれ、1916年に正四位を贈られました。
そんな江藤は故郷の佐賀の英雄です。
彼をしのぶ場所がいくつかご紹介しましょう。
江藤新平の墓所 本行寺
佐賀市最大の日蓮宗寺院の本行寺は、1510年頃に龍造寺胤家が開きました。
正門から入り、本堂手前の左側に江藤新平の墓があります。
墓碑銘は書家としても知られた副島種臣によるものです。
<本行寺:佐賀市西田代1丁目4-6>
旧佐賀藩士の慰霊祭が行われる 万部島招魂場
万部島は戦国武将の龍造寺家兼が法華経一万部を納経したことに由来します。
ここには、佐賀の役で亡くなった旧佐賀藩士ら212人を弔う慰霊祭が毎年行われています。
慰霊碑には、佐賀の乱で共に戦った江藤新平や島義勇らの名前が見られます。
<万部島招魂場:佐賀市水ヶ江一丁目 万部島>
きょうのまとめ
自分の立ち場を守ることを考えるよりも、日本の近代化のために多くのことを次々に実践していった江藤新平。
そんな明治の日本の骨格作りに貢献した人物をご紹介しました。
江藤新平とは
① サムライの心を持ったまま日本近代化に向けた骨格作りに寄与した、辣腕政治家
② 先進的民権思想の持ち主であり、あまりの先見性のために明治政府内に敵も多かった政府の高官
③ 明治政府の挑発により佐賀の乱を起こし、非業の最期を遂げた佐賀の英雄
でした。
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