「家具の音楽」を提唱し、それまでの西洋音楽の在り方に革命を起こした作曲家、
エリック・サティ。
当時としては前衛的な彼は、「変わり者」や「異端児」とも言われていました。
しかしその音楽は普遍的な魅力によって現在でも人々の生活に溶け込んでいます。
エリック・サティとは一体どのような人物だったのでしょうか。
今回は、その生涯について主な功績やエピソードと共にご紹介していきます。
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エリック・サティはどんな人?
- 出身地:フランス オンフルール
- 生年月日:1866年5月17日
- 死亡年月日:1925年7月1日(享年59歳)
- フランスの作曲家。クラシック音楽界の異端児。
エリック・サティ 年表
西暦(年齢)
1866年(0歳)フランスのオンフルールで誕生。その日に聖公会教会(プロテスタント派の英国国教会)で洗礼を受ける。
1870年(4歳)父親の海運業が廃業し、一家でパリに移住。
1872年(6歳)母親が死去しオンフルールの祖父母の家に預けられ、カトリックの洗礼を受け直す。教会でオルガンを弾き始める。
1874年(8歳)オルガニストの下でピアノを習う。
1878年(13歳)パリに戻り、翌年パリ国立高等音楽院に入学。ピアノ、作曲を学ぶも読書や瞑想、グレゴリオ聖歌の研究に関心を寄せる。
1885年(19歳)2年半の休学の末、音楽院に戻る。処女作のピアノ曲2つ『ヴァルスーバレー』『ファンテジーヴァルス』を作曲。
1886年(20歳)うつ病を発症。退学を考えた後、志願兵として入隊するも気管支炎により脱退。モンマルトルの下宿屋に移住。ピアノ曲『3つの歌曲』『4つのオジーヴ』を作曲。
1888年(22歳)『3つのジムノペディ』を作曲。カフェ「黒猫」でシャンソン等を弾く第2ピアニストとなる。
1889年(23歳)パリ万博で日本伝統音楽や文化に触れる。シャンソンを作曲。
1890年(24歳)モンマルトル内の別のアパートに移住。薔薇十字団に加入し公認作曲家となるも2年後に脱退。『3つのグノシエンヌ』を作曲。
1891年(25歳)カフェ「黒猫」の店主と揉めて辞職。ドビュッシーと親交を結ぶ。
1898年(32歳)パリ南郊外の工場地帯、アルクイユに移住。
1899年(33歳)モンマルトルのカフェでピアニストとシャンソンの作曲家を務める。
1903年(37歳)ピアノ曲『梨の形をした3つの小品』を作曲。
1905年(39歳)スコラ・カントルムに入学。対位法などの作曲を学ぶ。
1908年(42歳)同校卒業。アルクイユの急進派社会党に加入。信徒救済会を設立。
1912年(46歳)全4曲のピアノ曲『犬のためのぶよぶよした真の前奏曲』を作曲。
1915年(49歳)詩人のジャン・コクトーと交流。前衛芸術家たちとの交流も深くなる。
1920年(54歳)「家具の音楽」を提唱。
1923年(57歳)全3曲の管弦楽曲『家具の音楽』をミヨーと共に作曲。
1924年(58歳)管弦楽曲のバレー曲『メルキュール』をピカソ、マシーンと共に作曲。
1925年(59歳)肝硬変により死去。
エリック・サティの生涯
ここからは早速、エリック・サティの生涯について功績と共に辿っていきましょう。
苦悩の学生時代
1866年、フランスの港町オンフルールで誕生したエリック・サティ。
幼い頃に母親や祖母を失くし、パリやオンフルールを行き来しながら育った彼は、6歳の頃にはオルガンに親しみ演奏するようになります。
しかし13歳の時に入学したパリの音楽院には馴染めず、休学やうつ病などを経験した後、20歳の時に退学。
人生に苦しみながらも、この頃からピアノ曲などの作曲を始めています。
・3つのグノシエンヌ
等は現在でもよく知られる名曲です。
22歳の時に、カフェ「黒猫」でシャンソンを弾くピアニスト兼作曲家となり生計を立てるようになると、カフェに集まる他の芸術家達との交流によって刺激を受けていきました。
中でも同時代の作曲家、ドビュッシーやラヴェルとの親交は互いに影響を与えることになります。
3つのジムノペディ
3つのグノシエンヌ
再び学生に
店主と口論になり「黒猫」でのピアニスト生活を終えた後も、エリック・サティは
・ワーグナー作品の古典的でエキゾチックな音楽
・パリ万博で触れた日本を含めるアジアの伝統音楽、文化
等を取り入れ、独自の作曲スタイルを築いていきました。
再びモンマルトルのカフェでシャンソンの伴奏や作曲家を務めた後、39歳の時にスコラ・カントルムという音楽学校に入学。
各国の幅広い伝統音楽や作曲法を学んだ後、3年後に卒業。
ここでの学びが転機となり、以後エリック・サティの作曲家としての知名度は上がっていくことになりました。
異端児の活躍
詩人や画家等、別ジャンルの芸術家との交流も深まり、1917年に上演されたバレー『パレード』は人々に衝撃を与えます。
ジャン・コクトー、ピカソらの協力を経て上演されたこの作品には、管弦楽器の他に
・銃声
・タイピング音
等と言った従来の西洋音楽には無い異質の音、今でいうノイズを取り入れたのです。
こうしてエリック・サティは、音楽の中に「具体音」、つまり日常にある音に注目してそれを作品に反映していきます。
またサティは、20世紀前半の前衛的な芸術潮流とも結びつき、音楽の分野でその先駆的な存在となっていきました。
現在に続くBGM
1920年、エリック・サティは「家具の音楽」という概念を提唱し、実際に3曲作っています。
それはカフェやレストラン等に流される音楽で、それ自体が主役ではなく、あくまで
・外の喧騒を遮断する
・空間内の物音を中和する
という実用的な役割を持つ、いわゆるBGMです。
8小節ほどの音楽をひたすら繰り返し流すそれは、聴覚に対する壁紙のようなものとなります。
エリック・サティの提唱したこの実用的な音楽の在り方は、彼の活躍した時代の少し前からの音楽潮流である、古典派~ロマン派の自己主張的な作風とは一線を画すものでした。
実際にBGMは中世の貴族の食卓にも用いられていました。
それに意味を持たせたのがエリック・サティであり、彼はミニマル・ミュージック(音の動きを最小限に抑え、パターン化された音型を反復させる音楽)の元祖とも言われているのです。
エリック・サティにまつわるエピソード
ここではエリック・サティの人物像をより掘り下げるために、彼にまつわるエピソードをご紹介していきます。
薔薇十字団
音楽院を退学し、カフェ「黒猫」で伴奏や作曲を行っていた若き日のエリック・サティ。
彼はこの頃「薔薇十字団」という、中世から続くキリスト教の秘密結社に入団しています。
彼はそこで礼拝堂長に任命され、公認作曲家にもなりこの教団のための曲をいくつか制作。
しかし所属していたのはわずか2年ほどのことで、その後はきっぱり決別しました。
楽譜への書き込み
独自の発想により変わり者としてのエピソードには事欠かないエリック・サティ。
彼は、楽譜上でも独自の行動を見せていて、
・独特で奇妙な指示や詩のようなものを長々と書き込む
等ということしています。
また、30代後半で音楽学校に入学して以降の彼の曲名に、風変わりなものが多いのも特徴です。
きょうのまとめ
今回はフランスの作曲家、エリック・サティについてその生涯を功績やエピソードと共にご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、エリック・サティとはどのような人物だったのか簡単にまとめると
① 19世紀~20世紀にフランスで活躍した作曲家。
② 「家具の音楽」を提唱するなど、作曲において新しい試みを次々に行った。
③ 当時としては、良くも悪くも異端児や変わり者として見られた。
ひとつの方法に縛られないエリック・サティの音楽。
興味を抱いた方は、聴き比べてみると面白いかもしれません。
変幻自在ともいえる彼の作品たちに驚くと共に、どこかで耳にしたことがあることにも気づくでしょう。
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