江戸幕府が倒れて明治の世になっても、新政府に従わない人々がいました。
榎本武揚は、その最たるものといえるのではないでしょうか。
幕臣だった榎本は旧幕府軍を率いて、現在の函館にある五稜郭で新政府への最後の抵抗をしました。
これを五稜郭の戦い、もしくは箱館戦争とも呼ばれます。
しかし驚くことに、榎本武揚は殺されることなく、むしろ政府の要職に迎えられたのです。
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榎本武揚らの処遇をめぐって
戦闘の末、降伏した旧幕府軍。
その幹部を務めた榎本武揚や松平太郎、大鳥圭介ら7名は捕らえられ、投獄されました。
普通に考えれば、反乱軍を指揮した者たちは、殺されてもおかしくはありません。
当然、当時の政府内でも幹部らの極刑が議論されたといいます。
しかし彼らは明治5年、釈放されることになったのです。
黒田清隆の助命活動について
逆賊であった彼らの命を助けたのは黒田清隆でした。
黒田清隆は、後に第二代内閣総理大臣を務めた人物として知られています。
ではなぜ、黒田は榎本武揚らの命を救ったのでしょうか。
新政府軍の参謀だった
そもそも薩摩出身の黒田清隆は、五稜郭の戦いでは新政府軍の参謀として指揮を執っていました。
抵抗を続ける旧幕府軍とは直接、敵として対峙していたわけです。
ですが、次第に追い詰められていく旧幕府軍に対し、黒田は助命のための内部工作を行います。
榎本武揚には降伏を勧め、何度か断られはするものの、最終的には受け入れさせることに成功します。
体を張って助命を求めた理由
そして戦後においても、黒田は榎本らの助命を訴え続けました。
自分の頭を丸めてまで、助命嘆願運動に奔走したといいます。
かつて敵だった者たちを、ここまでして救おうとした理由は何だったのでしょうか。
それは、彼らが優れた能力と人格を備えていたからだといいます。
出来立てほやほやの明治新政府には、優秀な人材が不足していたという背景がありました。
榎本武揚はオランダへの留学経験があり、軍事技術や国際法の知識を持っていたのです。
殺すには惜しい人物、黒田清隆もそう思ったのではないでしょうか。
その後の榎本武揚の活躍
三年の牢獄生活を経て、榎本武揚は明治新政府に仕えることになります。
当時、ロシアとの国境問題(当時の樺太は国境が確定しておらず、北はロシア、南は日本という風になっていました。ですがロシアが軍を南部に進め、軍事基地を建設するなどしていました)を抱えていた新政府は、外交が得意な榎本を招いたのです。
特命全権大使に任命された榎本は、ロシアと樺太・千島交換条約を締結することに成功します。
樺太を譲る代わりに、千島列島のすべてをもらうとしたものです。
この条約は日本という国が初めて、列強諸国に対して平等な地位で締結した条約でした。
この働きが評価され、その後の榎本武揚は外務大臣などの政府の要職を務めることになったのです。
そして、なんとプライベートでは命の恩人・黒田清隆と親戚になりました。
榎本の長男・武憲と黒田の長女・梅子が結婚したからです。
助けたうえに、娘を榎本家に嫁がせるとは・・・・・・。
黒田清隆は、榎本武揚という男に相当惚れ込んでいたのではないでしょうか。
きょうのまとめ
榎本武揚と黒田清隆の関係についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
今回のまとめとしては、
① 黒田清隆は逆賊である榎本武揚らの命を救った
② 榎本武揚たちは優秀な人材であったため、明治新政府に必要だった
③ 榎本武揚は日本初の平等条約、樺太・千島交換条約をロシアと締結した
④ 黒田清隆と榎本武揚は親戚関係になった
といえます。
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