デカルトとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

代表的な思想に「二元論」があり、「近世哲学の祖」とも呼ばれた哲学者、

ルネ・デカルト

著作『方法序説』、『省察』では、その数学的で合理的な思想体系を見ることができます。

デカルトとは一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は彼の主な功績と共に、その波乱に満ちた生涯をご紹介していきます。

 

デカルトはどんな人?

プロフィール
ルネ・デカルト

デカルトの肖像
出典:Wikipedia

  • 出身地:フランス王国 トゥーレ州ラ・エー
  • 生年月日:1596年3月31日
  • 死亡年月日:1650年2月11日(享年53歳)
  • フランス人の哲学者、数学者。二元論を唱え「近世哲学の祖」と呼ばれる。

 

デカルト 年表

年表

西暦(年齢)

1596年(0歳)フランス王国トゥーレ州、ラ・エーで誕生。

1607年(11歳)ラ・フレーシュ学院に入学。

1614年(18歳)ポワティエ大学に入学。

1616年(20歳)同大学で法学・医学を学んだ後、法学士の学位を取得し卒業。

1618年(22歳)オランダでナッサウ伯マウリッツの軍隊に入隊。

1619年(23歳)三十年戦争に参加するためドイツへ。

1623年(27歳)約2年かけヴェネツィア、ローマを旅する。その後パリに滞在。初めて公衆の面前で自身の哲学思想を披露する。

1628年(32歳)オランダに移住。以降自らの使命として哲学に没頭する。

1637年(41歳)『方法序説』を発表。

1641年(45歳)『省察』をパリで発表。

1643年(47歳)神聖ローマ帝国諸侯の娘、公女エリーザベトとの手紙のやり取りが始まる。

1644年(48歳)『哲学原理』を発表。

1649年(52歳)『情念論』を発表。スウェーデンの女王クリスティーナから招待を受けストックホルムへ。

1650年(53歳)2月11日、風邪をこじらせ肺炎を発症し死去。

 

デカルトの生涯

ここからは早速、デカルトの生涯を功績と共に見ていきましょう。

若き日のデカルト

大学を卒業した後にオランダで軍隊に入隊した22歳のデカルト。

彼の学生時代はとても勤勉で、あらゆる分野の学問を吸収して自らの思想の根底を築き上げていました。

そんな彼は、大学卒業と共に書物の世界を捨て、世間という大きな世界に出ることを決意。

当時近代化が進んでいたナッサウ伯マウリッツの軍隊へと加わったのです。

そこでデカルトは数学者技術者等、数学的なものの考え方をする人々との交流を図ります。

後に哲学者としてだけでなく、数学者としても知られることになるデカルトですが、彼の思想体系はこの頃から既に明快で合理性を有した数学的なものでした。

特にこのとき出会った医者であり自然学者、そして数学者のベークマンという人物には多大な刺激を受け、後の人生の方向性を決める重要なきっかけとなりました。

1619年、彼が23歳を迎えた頃に三十年戦争が勃発。

デカルトはこれに参加するためオランダを離れドイツへ赴き、バイエルン公マクシミリアン1世の軍に入隊。

そしてその年の10月、彼は哲学することを自身の使命として考え始めます。

精神力の全てをそこに投じるためにウルム市近郊にある村の炉部屋にこもりました。

旅の果ての移住

1623年から約2年に渡り、デカルトはドイツからイタリアやフランスなどを渡り歩きます。

そして多くの学者や哲学者たちとの交流によって自身の思想を深めていったのです。

そんな彼が自身の哲学的な構想を初めて公衆の面前で語ったのは、旅を終えてパリに滞在しているときでした。

デカルトの語る新しい思想はその場にいた神父や枢機卿たちに理解され、さらに研究することを勧められました。

こうしてデカルトは本格的に哲学に取り組むために、32歳でオランダの地に移住します。

この地を選んだのは、不自由なく孤独な隠棲をするのにぴったりな環境が整っていたからです。

これ以降デカルトは、

『世界論』
地動説を含めた世界観をその誕生から解き明かす

『方法序説』
正しい理性を用いて真理を探究する方法、及びその試み。「デカルト座標」の発明。

『省察』
『方法序説』をより詳しく専門的にした内容

『哲学原理』
デカルト哲学の完成形

等といった代表作を執筆し、世に発表しています。

しかし彼が移住後すぐに取り組んだ『世界論』は、ガリレオ・ガリレイの地動説が異端審問にかけられる事件が起こったことで、公刊を断念しています。

晩年と客死

晩年のデカルトは、プファルツ選帝侯の娘エリーザベトとの手紙のやり取りを通し、心身問題にも取り組みます。

後に発表した『情念論』は、その時の研究や論文を基にまとめた内容で、知覚、感覚、感動等、情念を主題にした研究書です。

そして1649年の10月。

スウェーデンの女王、クリスティーナからの度重なる招待を受けて、デカルトは最後の旅に出ます。

ストックホルムへと到着した彼は、翌年から女王のために朝の5時から講義を行っていました。

しかし、真冬の早朝に行う講義はデカルトの体に深刻に響き、風邪をこじらせた彼は肺炎を発症。

2月11日、この地で最期を迎えました。

 

デカルトにまつわるエピソード

ここでは、数奇な運命を辿ったデカルトにまつわるエピソードをご紹介していきます。

早死宣告

フランスのトゥーレ州にある村に生まれたルネ・デカルト。

彼が1歳を迎えて間もなく、母親は弟を産んだ後に肺の病で命を落とします。

弟もその数日後に亡くなっています。

そしてデカルト自身も幼少期からいつも病的に青白く空咳をしていました。

医者だった祖父には「20歳までに早死にする」と予告され、彼はそれを信じながら子供時代を過ごしていました。

しかしその病弱な体質のおかげで、彼はラ・フレーシュ学院で特別待遇を受けることになります。

今で言うと中高一貫の寮生活の学校なのですが、デカルトには個室が与えられ、朝寝坊も許可されていたのです。

彼の知的好奇心はこの学院生活で開花し、勤勉で従順な勉強態度はやがて学院での授業を越えた学問へも向き、あらゆる分野にその食指は伸びていきました。

頭蓋骨の旅

1650年にスウェーデンのストックホルムの地で死去したデカルト。

その遺体はこの地の共同墓地に埋葬されました。

しかしスウェーデンはプロテスタントだったため、カトリック教徒だったデカルトの遺骨はその16年後にパリの修道院に移されます。

彼の遺骨は、この修道院で安らかに時を見送るはずでした。

しかし時は流れて1812年。

突然デカルトの頭蓋骨がストックホルムで発見されます。

そしてその後もその頭蓋骨だけが転々と場所を移し、ヨーロッパを旅することになったのです。

最終的は19世紀に科学者によってオークションで競り落とされ、フランスに帰還しています。

そして現在は、パリの人類博物館に展示されているのです。

 

きょうのまとめ

今回は、主に17世紀にかけて活躍した哲学者にして数学者、ルネ・デカルトについてその生涯を功績と共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、デカルトとはどんな人物だったのか簡単にまとめると

① 17世紀に主にオランダで活躍したフランス人の哲学者。

② 数学や幾何学にも精通し、著作の中でもその思想体系が感じられる。

③ 代表的な思想に「二元論」があり、「近世哲学の祖」と呼ばれた。

若死にを予言されるほどの病弱な体質に生まれ、ヨーロッパ各地に滞在し、その死後もヨーロッパ中を転々と彷徨うことになったデカルト。

明晰で合理的な思想を唱えた哲学者の人生は、思いがけず波乱に満ちた数奇な運命を辿りました。

デカルトには他にもいくつかのエピソードがあります。

難解な哲学の勉強の息抜きに、その哲学者の人生エピソードを見てみるのも面白いですよ。

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