伊達宗城とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

伊予宇和島8代藩主・伊達宗城だてむねなり

幕末期、幕政に影響力をもてた有力藩主のひとりとして「四賢候しけんこう」の名で呼ばれた人物です。

大河ドラマ『青天を衝け』では、菅原大吉さんが配役を担当。

本作では目立つ役回りではありませんが、この宗城という人物、実際は相当なキレモノです。

というのも、そもそも宇和島藩はそこまで力のある藩ではありませんでした。

にも関わらず、絶大な権力を得るまでに成り上がった伊達宗城とは、いったいどんな人物だったのか…?
 

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伊達宗城はどんな人?

プロフィール
伊達宗城だてむねなり

伊達宗城
出典:Wikipedia

  • 出身地:江戸
  • 生年月日:1818年9月1日
  • 死亡年月日:1892年12月20日(享年75歳)
  • 伊予宇和島8代藩主。幕末期の有力藩主4名「四賢候」に名を連ねる名君。明治期には「日清修好条規」を結ぶなどの功績がある。

 

伊達宗城 年表

年表

西暦(年齢)

1818年(1歳)旗本・山口直勝の次男として江戸で誕生。

1829年(12歳)伊予宇和島7代藩主・伊達宗紀むねただの養子となる。

1844年(27歳)伊予宇和島8代藩主に就任。

1858年(41歳)将軍継嗣問題で大老・井伊直弼なおすけと対立。「安政の大獄」で隠居謹慎となる。

1860年(43歳)「桜田門外の変」で井伊が暗殺され、謹慎解除となる。

1862~1867年(45~50歳)朝廷の命を受けて上洛。参預会議、四候会議などを通し、幕政に携わる。

1867年(50歳)「王政復古の大号令」が発令され、新政府の議定ぎじょう(閣僚)に就任する。

1869年(52歳)民部卿、大蔵卿を兼任。鉄道敷設のため、イギリスと融資の交渉を行う。

1871年(54歳)清国の全権大使・李鴻章りこうしょうと交渉。「日清修好条規」を締結する。同年、政府を辞任。

1881年(64歳)日本を訪れたハワイ国王・カラカウアから勲章を授与される。

1884年(67歳)華族令によって伯爵となる。

1892年(75歳)浅草今戸にて病没。

 

旗本の家系から藩主の養子に


1818年、伊達宗城は旗本・山口直勝の次男として生まれます。

江戸時代の旗本といえば石高は数千ほどで、そこまで高い身分ではありませんが、

宗城はなんと、12歳にして伊予宇和島藩主・伊達宗紀むねただの養子に。

実は宗城の祖父・山口直清は伊予宇和島5代藩主の次男として生まれ、山口家の養子となった経緯があります。

宗紀はなかなか子宝に恵まれず後継者に悩んでいたため、血縁関係のある山口家に声をかけたわけですね。

幼少から読書家だった宗城は、中国の歴史書を読破するなど、このころからすでに才覚を表し始めていた様子。

また、水戸9代藩主・徳川斉昭なりあきのもとをたびたび訪ね、熱心に教えを乞うような少年だったといいます。
 

名藩主・宗城

27歳のころ、8代目の伊予宇和島藩主となった宗城。

ここからその名君ぶりがいかんなく発揮されていきます。

藩政改革

先代の宗紀は、傾いていた藩の財政を立て直すべく、殖産興業を推進していました。

宗城はその流れを汲み、木蝋もくろうの専売化石炭の埋蔵調査など積極的な取り組みを見せていきます。

(※木蝋…ウルシの果実から摂れる脂肪分。ろうそくなどに利用される)

なんでもこれは、先代から宇和島藩と懇意にしていた学者・佐藤信淵のぶひろからのアドバイスによるものだったとか。

そして注目すべきは、宗城の代で急激に軍備が増強されていったことです。

宗城は西洋の蒸気船に興味をもち、長州藩の蘭学者・大村益次郎を雇って研究を進めさせます。

実際の製作にあたっては、手先が器用な嘉蔵かぞうという提灯職人を起用。

独自のやり方で蒸気船を完成させてしまうのです!

当時、薩摩藩がすでに蒸気船をもっていましたが、これは外国人の職人を雇って作ったもの。

日本人だけで作り上げてしまうなど前代未聞でした。

そのほか、江戸で幕政批判をしてお尋ね者になっていた蘭学医・高野長英を雇い、大砲を開発させたりも。

雇われた人たちは誰も兵器の専門家ではありません。

宗城はとにかく外国の書物を読める人材を集めて、軍備を整えていったわけですね。

このような藩政改革が功を奏し、当初7万石の弱小藩だった宇和島藩は、一躍雄藩の仲間入りを果たすこととなります。

(※雄藩…全国の藩のなかでも特に力のある藩のこと)

藩主たちとの連携

藩の内政を強化していきながら、宗城はほかの藩主たちとも連携を強めていきます。

具体的には、土佐藩主の家系がお家断絶の危機にさらされた際、老中・阿部正弘に働きかけ、山内容堂ようどうを新しい藩主に立てたり。

前薩摩藩主・島津斉興なりおきとの不仲で、後任の島津斉彬なりあきらがなかなか藩主になれないのを見ると、これも阿部に働きかけ解決するなど。

このようにしながら、山内や島津から慕われ、いつしかそれらの藩主と肩を並べる「四賢候」の名で呼ばれるようになっていくのです。

四賢候というのは、幕末期の諸藩のなかから、幕府に強く意見できるようになった

・薩摩11代藩主・島津斉彬

・土佐15代藩主・山内容堂

・福井16代藩主・松平春嶽

・伊予宇和島8代藩主・伊達宗城

という、4人の藩主を表します。

そう、宗城は積極的に幕政に参加していたのですが…

実はそのことが仇となってしまうのです。

1858年に勃発した将軍継嗣問題に際し、宗城は自身も懇意にしていた徳川斉昭の実子である一橋慶喜を推薦。

一方でこのとき幕府を牛耳っていた大老・井伊直弼なおすけは、紀伊藩主・徳川慶福よしとみを支持します。

この対立によって邪魔者と見なされた宗城は、大老の強権で隠居謹慎に処されてしまうのです。

これを「安政の大獄」といい、井伊と対立した派閥はこのときほとんど弾圧されてしまいます。

こうして宗城は藩主の座を降ろされるわけですが、このとき先代の宗紀には宗徳むねえという息子ができており、藩主の座は宗徳に譲られることとなりました。

もっとも藩主を退いても、宗城は後見として権力を持ち続けることとなります。
 

明治維新へ向けて

徳川慶喜

安政の大獄から間もなくして、大勢の反感を買った井伊は1860年、「桜田門外の変」で暗殺されてしまいます。

これによって、宗城の謹慎が解かれることに。

そして1862年には朝廷からお声がかかり、薩摩藩などと協力して公武合体こうぶがったいを支援することとなります。

(※公武合体…幕府と朝廷が協力して政治を行っていくこと。これまでは幕府がほとんど独断で政治を行っていた)

この公武合体に際し、一橋慶喜と有力藩主を軸にした「参預会議」「四候会議」などが立ち上がりました。

こういった体制を通し、藩主たちは自分たちが政治を主導できると考えていたのですが、

そこはさすがの慶喜公。

藩主たちをことごとく手玉に取り、これらの会議ではなんの成果も出ないうちに、幕府へと主導権を引き戻すのです。

この辺りの逸話は『青天を衝け』14話でも描かれていましたね。

その後、時勢は明治維新へと向かっていき、1867年に新政府が成立。

宗城は議定ぎじょうという官職を任されることとなりますが、旧幕軍との戊辰戦争には積極的になれず。

新政府軍の参謀を任されるも、これを辞退しています。

理由としては、姻戚関係にあった仙台藩が幕府側についていたためだとされています。

伊予宇和島藩はもともと、大坂冬の陣で戦功を挙げた伊達家に与えられたもので、仙台藩の分家にあたるのです。
 

新政府にて外交を担当


明治期にいたってからの宗城は主に外交を担当

「堺事件」や「神戸事件」など、明治初期は外国人とのトラブルが続発しており、その対応に追われていたようです。

宗城は藩主を務めていた時期に海外の文献を熱心に読み漁り、外国事情にはかなり精通していたといいます。

幕末期にイギリス公使パークスや、外交官のアーネスト・サトウが宇和島を訪れた際も、宗城の接待に両者が感心させられたという話。

特にアーネスト・サトウとは、

宗城
天皇を中心とした新たな体制を作りたい

という話もしていたようで、新政府ができるずっと以前から先見の明をもっていたことを物語っています。

明治以降の大きな功績としては、清国の全権大使・李鴻章りこうしょうと交渉し、「日清修好条規」を結んだことでしょう。

欧米諸国との条約を巡っては、関税自主権や領事裁判権が問題となっていましたが、日清修好条規はそれらをクリアした平等条約でした。

しかし、皮肉にもこの条約を結んだことにより、宗城は政界をあとにすることとなります。

…どうしてか。この時期の政府の人たちって、清国に対してすごいケンカ腰なんですよね。

政府の要人には

「もっと不平等な条件をふっかけてやればよかったのに!」

という意見の者が多く、日清修好条規が批判されてしまうのです。

また、

「清国が他国と戦争になったときは協力する」

というニュアンスも条約に含まれていたため、欧米諸国からも苦言を呈されてしまいます。

こうして宗城は辞任を余儀なくされることになりました。

ちなみに政府を去っても、宗城は明治天皇に生涯重宝されたという話。

外国のお偉いさんが来日した際は、決まって接待が任されていたといいます。

渋沢栄一など、幕末には海外での経験を経て飛躍していった偉人がたくさんいますが、

宗城の外交手腕はすべて国内で身につけたもの。

ほかの要人と比べても、そのポテンシャルは図抜けていたはずです。

 

きょうのまとめ

ひょんなことから伊予宇和島藩主となり、その才覚を一気に発揮していった伊達宗城。

幕末の動乱を巡っては、幕府に味方しているような、そうでもないような…ちょっと不思議な面もある人物でした。

最後に今回のまとめ。

① 伊予宇和島8代藩主となった伊達宗城は、殖産興業の推進、軍備の近代化を進め、宇和島藩を雄藩の一角に育てた。

② 宗城は薩摩藩や土佐藩とも連携をとり、幕政への発言権を得ていった。その影響力をもって「四賢候」と呼ばれるように。

③ 明治維新後は、新政府にて外交を担当。国内の外国人とのトラブルを解決したり、清国と平等条約を結んだりした。

日本人だけで蒸気船を作る、日本にとって初めての平等条約を結ぶ…などなど、

新しいことに次々取り組んだチャレンジ精神には魅せられるものがありますね。
 
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