張良は劉邦の賢臣の一人で、
劉邦が武将だった時代だけでなく、
皇帝となってからも近くで劉邦のことを支え続けていました。
今回は張良がどのようにして出世し、どんな最期を遂げたのかついて調べてみました。
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劉邦に必死に仕えた
武将時代
まずは張良が劉邦の下でどのようにして名声を築き上げていったのかを紹介します。
張良が活躍したこととして日本でも特に有名なのが、鴻門の会でしょう。
項羽の部下たちが劉邦の危険性に気付き、暗殺しようとした出来事です。
この時に張良は劉邦が項羽の部下たちに命を狙われていると知り、機転を利かせて劉邦を守ります。
また劉邦と項羽が結んでいた休戦の講話を破り、項羽の軍が弱っているすきに追撃を開始するように進言し、
項羽を自殺に追い込むことに成功したは張良の助言によるものです。
劉邦は
・蕭何
・張良
の三人を特に天下統一に功績がある人物として選びました。
しかし、実際戦場で戦っていた韓信はともかく、張良と蕭何が最も功績のある三人として選ばれることに不満を持つ部下もいました。
そんな部下たちに向かって、劉邦は
「お前たちは自分の力で戦に勝ったつもりかもしれないが、勝つことができたのは張良のたてた作戦のおかげだ。」
と言い放ちます。
皇帝時代
劉邦が張良の才能を認めていたため、周りも張良を認め尊敬されるようになります。
張良は劉邦が皇帝になってからも謀反の疑いがあれば対策を提案し、未然に防ぐなど多くの功績を立て続けました。
また、あまり劉邦と仲が良くなかった劉盈が二代皇帝になることができたのは、
劉邦が劉盈を廃して、側室との間にできた息子を皇帝にするのを張良が防いだからです。
劉盈の母親である呂雉は張良にとても感謝しています。
賢臣、張良の最期
劉邦のために懸命に知恵を絞って仕えていた張良でしたが、
韓信や他の功臣たちが次々に劉邦によって処刑や処罰を受けたり、謀反などの疑いをかけられるようになると
張良は自分の全財産を返還して
「仙人になりたい。」
と言い宮仕えをやめてしまいます。
そして、宮中から離れたところで静かに息を引き取るのです。
頭を使いすぎて疲れてしまった?
なぜ張良が宮仕えをやめて仙人になりたいなどと言いだしたかは、はっきりとは分かっていません。
そのため、
「若いころからたくさん頭を使いすぎて疲れてしまったのではないか(少しおかしくなってしまったのではないか)」
とさえ言われています。
元々そこまで身体が丈夫ではないのにもかかわらず、仙人修行として断食などを行う張良に対し、
「体を壊すようなことはしないでください。」
と助言したのは、皇后であった呂雉でした。
張良はさすがに呂雉に注意されたときにはご飯を食べたようです。
謀反の疑いをかけられることを恐れた
「劉邦から謀反の疑いをかけられることを恐れて隠れたのだ。」
とも言われています。
劉邦は皇帝になってから自分の一族以外の人が人望を集めることを極端に嫌い、
武将時代に自分に必死で仕えてくれていた部下にも疑惑の目を向けるようになっていました。
張良は劉邦が皇帝になってからも近くで仕えていたために、
自分が処罰を受けることを心配し、劉邦の近くからいなくなったのではないかと言われています。
きょうのまとめ
今回は張良の最期についてまとめました。
賢臣として知られている張良ですが、最後は宮中から離れたところで呂雉に見守られながら静かに息を引き取ったようです。
自分が無名だった時代にただ一人才能を認めてくれて、
天下統一を成し遂げた後も懸命に仕えていた自分の主君である劉邦が変わっていく様子を、
張良はどんな思いで見ていたのでしょうか。
劉邦は数多くの功臣を処刑する中、張良を大々的に処罰することはありませんでした。
「張良の懸命な努力が劉邦にも少しは伝わっていた」
ということを願っています。
張良の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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