アレクサンドロス大王の死因の謎

 

東方遠征を終え、大王となりバビロン(ペルシャ)に帰途した

アレクサンドロスですが、

10日間高熱にうなされ死去します。

紀元前323年6月10日のことでした。

若干20歳でマケドニア王となり、東方遠征を経て、ギリシャ、ペルシャ帝国を治めた直後の32歳という若さでした。

しかし、その死因については現在でも謎のままとされています。

今回は、その死因とアレクサンドロス死後の情勢についてご紹介します。

 

世界を揺るがす大王の死因

アレクサンドロス大王の死因ですが、実は諸説あります。

現在に伝わる伝記にも、発病から10日後に死去(12日後という説もある)したという記述しかありません。

また、アレクサンドロス大王の遺体は発見されておらず不明です。

歴史上とても有名な大王の死因について、今なお研究が進められています。

そのいくつかをご紹介します。

病死説

病死説は昔から定説とされてきました。

その病種も様々で、

・湿地帯を通った際に蚊に刺されマラリアを発症した

・川の水を飲んでバクテリア感染した

などです。

しかし、後世の医学の進歩によって、10日間高熱に苦しんだという特徴から西ナイル熱だったのではないか。という見解があります。

熱が高くなったり低くなったりするマラリアの特徴とは異なります。

また伝記にも、西ナイル熱に感染したと思われる鳥の群れと遭遇したことが記載されていることから、

マラリアよりも、西ナイル熱説の方が有力ではないでしょうか。

毒殺説

父フィリッポス2世も部下に暗殺されていますが、アレクサンドロスもまた暗殺されたのではないかという説です。

英雄としての伝承が多いアレクサンドロスですが、

・気性の激しさや、

・征服したペルシャ文化を積極的に取り入れたことにより不満を抱く者がいた

など、敵も多かったようです。

毒殺説にも諸説あり、あまり知られてはいませんが、毒女説というものもあります。

毒殺説1

父フィリッポス2世の時代から、マケドニア王朝に仕え、

アレクサンドロスの遠征中、マケドニア王国の統治の任にあたっていた

アンティパトロスという人物がいます。

そのアンティパトロスがアレクサンドロスに恨みを抱き、

側近(ワイン係)をしていた息子カッサンドロスに毒物を渡し、

弟のイオラスが盛ったという説。

毒殺説2

家庭教師をしていたアリストテレスも過去に甥を殺されたことを恨んで、

その毒物の調合をしたのではないか。という説。

毒女説

ある時、インドの王より絶世の美女が贈られました。

しかし、その美女は生まれた時から毒性に慣らされて育だったため、生ける猛毒となり、呼吸をするだけでその場の空気が毒性を帯びました。

その美女と一夜を共にしたアレクサンドロスはその後苦しみ、高熱にうなされ死去としたという説。

なかなか、現実的とは思えない説ですが、現在では真相は謎のままなので、この説も否定はできないでしょう。

事故死(医療ミス)説

近年の研究により、アレクサンドロスの死去直前の治療方法が残されていないことから、特別な治療が施されていないことが判明しました。

当時の治療薬として用いられたものの中に毒性の植物があったことも発見されています。

アレクサンドロスは東方遠征を終え、アラビア遠征を企てていました。

アレクサンドロスは絶えず傷や疲労などを抱え、次なる野望のため闘志を燃やしていました。

そのため、心身の回復に焦り、処方薬の量を少しずつ増やした結果、致死量に達したのではないかという説です。

現在でも起こりうる可能性がある説です。

近年では、この説が一番有力とされていますが、それもまた謎のままなのです。

 

大王亡き世界の混乱

死因は不明のままですが、若すぎる突然死だったため、後継者問題が浮上します。

高熱に侵されたアレクサンドロスは

「最強の者が帝国を継承せよ」

という遺言を残してこの世を去りました。

そして、この一言がその後の世界に波乱を巻き起こしました。

アレクサンドロス配下の武将達による内戦が起きたのです。

半世紀ほど続いた内戦に終止符が打たれたのが紀元前276年でした。

これをディアドゴイ戦争といいます。

ディアドゴイとは後継者という意味です。

戦後、いくつかの領土に分配されました。

そこで、各領土とその領主について簡単にご紹介します。

セレウコス朝シリア

東方遠征中セレウコスは重騎兵の一員で、王の近衛歩兵部隊の指揮官でしたが、特に目立った功績はあげていません。

ディアドゴイ戦争の結果、シリア北部とアナトリア中部の広大な支配圏を獲得します。

しかし、紀元前281年プトレマイオス・ケラウノス(プトレマイオスの息子)によって暗殺されます。

この頃の王朝が全盛期で、彼の死後衰退へと向いました。

プトレマイオス朝エジプト

幼少期より、アレクサンドロスの側近騎兵隊将校だったプトレマイオスは、遠征中も将軍として従軍するなど、大王の腹心の一人でした。

アレクサンドロス死後、総督として統治していたエジプトへ戻り、後継者として名乗り出ます。

ディアドゴイ戦争後、エジプトの支配権を獲得すると、統治体制を確率し、領土を東地中海に拡張しました。

また、アレクサンドリアの生活用水の問題を解決し、王立研究所や図書館の建設など、古代エジプトの繁栄を取り戻しました。

紀元前282年、共同統治者だったプトレマイオス2世に後を託し死去しています。

アンティゴノス朝マケドニア

アンティゴノス1世は、父王フィリッポス2世の時代からマケドニア王家に仕えた将軍でした。

遠征中は、イッソスの戦いの後、ギリシャ本土と小アジアの太守として、後方で活躍しています。

アレクサンドロス死後も太守として、この土地を統治し続けました。

ディアドゴイ戦争まっただ中の紀元前301年、イプソスの戦いで敗死します。

アンティゴノス1世は、アレクサンドロスの描いた帝国再建に奮闘しましたが、夢半ばに死去しました。

その野望を、息子デメトリオスが受け継ぐも、果たせず自殺します。

紀元前276年、孫のアンティゴノス2世によって、アンティゴノス朝マケドニアが成立しました。

 

きょうのまとめ

アレクサンドロス死後の世界が再び一統一されることはなかったですが、

それでこそ真の大王と呼べるのではないでしょうか。

現在は、アレクサンドロスの墓も遺体も未発見のため、死因の真相も不明なままです。

しかし、どの説も可能性はゼロではありません。

今後の研究と発見に更なる期待が集まります。

今回ご紹介したアレクサンドロス大王の死因の謎を簡単にまとめると

① 伝記の研究により、西ナイル熱に感染し死亡した可能性が高い病死説

② 恨みを抱いた者による毒殺説

③ 誤認識による毒物の過剰摂取によって死亡した、事故死説

と言えるのではないでしょうか。

その他にもアレクサンドロス大王にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

アレクサンドロス大王の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「アレクサンドロス大王とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










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