戦国最強の武将、上杉謙信。
その強烈なカリスマ性と統率力で
家中を取り仕切り、戦においてはあの武田信玄と激闘を繰り広げました。
そんな謙信の人生における心のあり方や哲学が散らばっている
様々な名言の数々をご紹介します。
どうぞ最後までお読みください。
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後世に残る名言の数々
春日山城壁書
謙信の居城、春日山城の壁に書かれていたという言葉です。
運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。
何時も敵を我が掌中に入れて合戦すべし。
死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。
運は一定にあらず、時の次第と思うは間違いなり。
武士なれば、我進むべき道はこれ他無しと、自らに運を定めるべし。
「死ぬつもりで戦えば生き残り、生きようとして戦えば死が待っている。運は自分で決めるもの。」
謙信の戦における考えが、この言葉に全て表現されています。
我、好敵手を失へり。
武田信玄が病気により亡くなった知らせを聞いた謙信が
言ったとされる言葉です。
「日本外史」によると、知らせを聞いた謙信は食事中だったのですが、
箸を落として号泣したと書かれており、謙信は信玄に対して特別な感情を抱いていたことがわかります。
謙信は信玄が亡くなった時、城下での音楽を3日間禁止したと伝わっています。
人の落ち目を見て攻め取るは
武田勝頼が長篠の戦いで、織田信長、徳川家康連合軍に敗北します。
その混乱に乗じ、
「武田の領地に攻め込むべし」と、家臣に言われた時に謙信が放った言葉です。
かつての宿敵であった武田が弱体化している時に攻め込むことは、謙信の「義」に反することだったのでしょう。
謙信は信玄が亡くなった後、武田軍と戦うことはしませんでした。
我は兵をもって
駿河国の大名、今川氏真が武田信玄に自らの領地を攻められた際
氏真は報復として、信玄が治める甲斐国への塩の輸出を禁止します。
これを聞いた謙信が氏真の行いを「卑劣」として言った言葉とされています。
謙信は敵であるにもかかわらず信玄に塩を送りました。
この逸話は「敵に塩を送る」ということわざの元にもなっており、
謙信の義狭心を垣間見ることができます。
我を毘沙門天と思え
謙信は自らを毘沙門天の化身というほど、毘沙門天を信仰していました。
ある時、隣国で「一揆が起きた」との知らせが謙信の下に届きます。
謙信はすぐに間者を用意させました。
謙信は戦の前や間者と密約を交わす時は、必ず毘沙門天が祀られている祠へ、家臣達と共に行き、そこで誓いをたてることを恒例としてました。
しかし、今回はすぐに間者を送り込まなければならないので祠まで行く時間がありません。
そこで謙信は、家臣と間者に対して
と言って、謙信の前で誓いをたてさせました。
謙信は、
我が毘沙門天を拝めば、毘沙門天も我を五十回か三十回は拝んでいるはずだ。
と言ったと伝わっています。
極楽も 地獄も先は
謙信が遺した辞世の句です。
(自分が亡くなった後は天国に行くのか地獄行きか、そんなことはどちらでも良い。今私の心は夜明けの月のように晴れ渡っているのだから。)
合わせて遺した句がこちらです。
(49年の人生は、一晩の夢のようであり、一時の繁栄もあったけれど、一杯の酒の様だった)
裏切りや策略が横行する戦国の世において
自らの義を貫き通した謙信だからこそ言える言葉なのかもしれません。
きょうのまとめ
いかがでしたでしょうか。
上杉謙信が残した数々の名言
これらで挙げたものの他にもまだまだ沢山の名言が後世に伝わっていますが
どれも謙信の義狭心や人生哲学が読み取れるものばかりです。
この記事を読んで気になった方は是非探してみてはいかがでしょうか。
上杉謙信については他にも様々な記事を書いています。
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