マハトマ・ガンジーが暗殺されて直ぐに、
当時インドの首相だったネルーは、ラジオで国民に報告しました。
その話の中で彼は、
「私は、どう話していいかわからない。
愛する指導者バプー(お父さん)。国家の父は、もはやおられません。」
と語りました。
ガンジーは生存中に「私は死ぬことを恐れてはいない。」といったそうです。
ガンジーの死を恐れていたのは、実はインド政府だったのではないでしょうか?
それでは、ガンジーの暗殺についてお話ししてみたいと思います。
タップでお好きな項目へ:目次
ガンジー暗殺に至る経緯
ヒンズー教徒とイスラム教徒の分割統治
当時イギリスに統治されていたインドは、独立を求めて反英闘争が激化していました。
非暴力・不服従による独立運動も盛り上がりを見せており、イギリス政府の立場は弱くなっていたのです。
この状態の打開にイギリスは武力制圧を図ると同時に、
宗教による対立を起こさせてインドの独立運動を何とか抑えていました。
人々の心を救う祈りの集会
1947年のパキスタンが分離独立を果たすとき、インド内は宗教における暴動で沸き返っており、ガンジーが最後の旅を終えて帰った時のデリーの状況は、血を見ない日がないほどで激化していました。
人間同士が傷つけ合う姿を見て、“人々の心を穏やかにしなければ”と、
ガンジーは友人でインド人実業家G・D・ビルラの邸宅の庭園で毎日集会を開きます。
・イスラム教のコーラン
・ユダヤやキリスト教の聖書
なども読み上げて、さまざまな宗教に対する祈りを捧げました。
心の安らぎを求めて集まってくる人たちはどんどん増え、何百人もの人がここにきて祈り、来られない人々はラジオでガンジーの説教を聞きました。
ガンジー最後の断食
“祈りだけではこの紛争を止めることができない。何かをしなければ“
と感じたガンジーは、イスラム教とヒンズー教の融和のために18回目の断食を決行。
と語っています。
この断食は、暗殺される前日まで行われました。
3日目の断食の時に、インド政府はパキスタンに多額のお金を支払いました。(パキスタンとの友好を願うガンジーの要望のひとつ)
この頃印パ戦争(カシミール戦争)が勃発しており、
「カシミールでインドと戦うイスラム戦士(カシミールの民衆)たちを助けるため、政府にお金を払わした。」
と思ったヒンズー教徒とシーク教徒が激怒し、
ビルラ邸を取り囲み「血には血を」、「ガンジーを殺せ!」とデモを起こしたのです。
カシミールはパキスタンとインドの国境にあり、分離独立後も両国から帰属の圧力をかけられ、
領主のハリ・シングどちらかへの帰属を決めかねていました。
カシミール領主のハリ・シングや支配者層はヒンズー教徒で、ガンジーと共に統一国家を目指したネルーを支持していましたが、
民衆のほとんどはイスラム教だったのです。
最後の断食終了の時
6日目にデリーのさまざまな団体のリーダーたちは、やっとガンジーに
“我々の命に代えて、平穏と友情を回復させる”
と誓約書を送りました。(枕元に集まり、協議して事態緩和を約束したとの説も。)
これを見たガンジーは、満足し断食を終了しました。
ヒンズー教やシーク教、イスラム教のリーダーたちもガンジーの心に訴えかける命懸けの断食には折れるしかなかったのでしょう。
どれだけ根深い感情を持っていても、みるみるやせ細り弱っていく姿を想像すれば逆に許さざるを得なかったのだと思います。
このような断食こそが、ガンジーならではのリーダーシップの取り方だったのです。
ガンジーの暗殺はどのように行われた?
ガンジー暗殺の時
ガンジーは体調の回復も待たずに、断食の翌日の1948年1月30日17時にビルラ邸での夕方の説教に出向き、断食を終え清々しい気持ちで微笑しながら教壇にのぼったのです。
集まった200~300人が、挨拶にどっと押し寄せたときのこと。
ガンジーのイスラム教徒に友好的な姿勢に反発した、ヒンズー教の男に銃撃されました。
この犯人は、会衆の一番前におり、ガンジーに向けていきなり何発か撃ったのです。
撃たれた直後のビルラ邸の様子
3発の玉が、ガンジーに命中しました。
ガンジーはイスラム教で「あなたを許す」という動作の額に手を当てる素振りをし、
と細い声で呟き天に召されました。
「ガンジーを暗殺したのはイスラム教徒だ!」と、群衆の中にいる誰かが叫びました。
この時イギリスの貴族のマウントバッテン卿は、即座に振り向き
「馬鹿者!撃ったのは、ヒンズー教徒だぞ」
と窘めたようです。
この時マウントバッテン卿はヒンズー教の仕業とは知らず、「イスラムの仕業なら大変なことになる」と機転を利かせての発言だったという説もあります。
政府関係者は、“イスラムの仕業だったら、内乱に発展し手に負えなかった”と思っており、犯人がイスラム教徒ではなかったことに安堵しました。
ガンジーを殺した犯人とは?
犯人はヒンズー教の過激派だった
犯人はヒンズー教過激派の「ナートゥーラーム・ゴードセー(Nathuram Godse)」。
彼は学生時代にはガンジーを尊敬し崇拝し、学校を中退し政治運動に身を投じています。
ガンジーの断食などによる身を挺しての非暴力主義はイスラム教への寛容な態度を示し、次第にヒンズー教徒は彼に対し敵対意識を強めました。
カシミールの帰属問題では、イスラム教徒が軍事侵攻を強行し印パ戦争に発展したのにも関わらず、ガンジーは変わらずイスラム教に譲歩し続けたのです。
更に分離主義を容認したことで、ヒンズー教徒原理主義者たちの思いが爆発し、ガンジー暗殺に繋がりました。
ゴードセーも政治活動をする中で、ガンジーへの尊敬の気持ちが憎しみに代わり爆発してしまったのです。
ガンジーのしたことは自己欺瞞だ!
逆説に聞こえるでしょうが、ガンジーは真実と非暴力をかかげ、言葉で表せない災難をインドにもたらした。
彼は暴力的な平和主義者だ!
インドに自由をもたらし英雄とされる、ラナ・プラタープやシヴァジ、ゴービンド・シン導師などとは、全く対照的である。
とゴードセーが裁判の中でガンジー暗殺の動機の一つとして訴えており、ガンジーのしたことは単なる自己欺瞞に過ぎないとも語っています。
彼は裁判で死刑を宣告され、1949年11月15日に共謀者の一人と処刑されました。
他の5人の犯人は終身刑となっています。
彼の裁判の時に語った言葉は説得力があり裁判官の一人は、
「もし、民衆の裁きを得たなら彼は無罪となっただろう」
と語りました。
暗殺後のガンジー
暗殺後国葬が行われ、200万人以上の人々が8キロに渡って列をなしたそうです。
ガンジーの亡骸はデリーで火葬された後、遺灰は、ヤムナー川とガンジス川など数々の聖なる川とボンベイの海に撒かれ、
その後インド各地に彼の記念館や墓などが作られました。
「非暴力・不服従運動」の指導者としての功績は今も受け継がれています。
2018年1月30日に、ガンジーが暗殺されて70年の節目を迎えました。
インドのモディ首相は「バプー(ガンジーの愛称)の命日にあたり敬意を称します」とツイッターに投稿しています。
きょうのまとめ
ガンジーはなぜ暗殺されたのかについていかがでしたでしょうか。
ガンジーの暗殺について簡単にまとめると
① ガンジー暗殺犯は、ヒンズー教過激派のゴードセー
② 暗殺理由は、イスラム教に友好的なガンジーを許せなかった
③ 政府は、暗殺犯がヒンズー教の過激派だったことに安堵した
と言えるのではないでしょうか。
その他にもガンジーについて色々な記事を書いています。
よろしければどうぞご覧ください。
その他の世界の偉人ははこちらから
関連記事 >>>> 「世界の偉人一覧」