奈良時代の遣隋使として、国の重要な仕事を果たした
小野妹子。
子孫達はどのような人生を送ったのでしょうか。
今回は、小野妹子から続く家系図を時系列順に追い、子孫の中でも、有名な方をご紹介します。
どうぞ、よろしくお願いします。
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小野妹子の家系図
まずは、小野妹子の家系図をみてみましょう。
本文と合わせて、みていくと分かりやすいかもしれません。
そもそも、小野妹子とは?
小野妹子は遣隋使として活躍した6世紀から7世紀の官人です。
聖徳太子が「日出る処の天子・・・」としたため、
隋の皇帝を激怒させた、あの有名な文書を、
聖徳太子の元から隋の皇帝まで運んだのは、小野妹子と言われています。
そもそもは「天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)」という皇子から続く系譜で、天皇家に繋がる家系です
平安時代の代表的な子孫3名
小野篁
小野妹子の6代後の子孫に、小野篁(802年~853年)がいます。
小野篁は平安時代の公卿でした。
政治や学問、馬術、芸術に優れた人物でしたが、
朝廷の批判を堂々とするような直情型の性格から、「野狂」というあだ名がついていました。
常に他者の顔色を伺っている平安貴族には、
篁のストレートな性格や行動は、理解しがたかったようです。
また、「地獄で閻魔大王の裁判を補佐していた」という、不思議な伝説も残しています。
小野小町
小野小町(825年頃~900年頃)も小野妹子の子孫です。
篁の孫とする説もありますが、正確なところはわかっていません。
非常に美しかったといわれており、日本では「世界三大美女」として有名です。
和歌の名手で、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙に選ばれています。
小野小町の和歌は情熱的な恋の歌が多いそうです。
当時は女性の記録がほとんどなく、その生涯は謎に包まれています。
小野道風
小野道風(894年~966年)平安時代の書道家で、小野篁の孫にあたります。
中国からきた書道を日本風にアレンジして、和様書道の基礎を作り、
藤原佐理と藤原行成と並んで、「三跡」と呼ばれています。
道風の書の評判は高く「源氏物 」にも登場し、作中で絶賛されています。
一方、性格は祖父同様に激しく、悪い評判が流れたこともあったようです。
公家から武士へ、地方に土着化した小野氏。
平安時代が下ると、徐々に小野氏は藤原氏や菅原氏などの他家におされ、勢力を失っていきました。
公家になれかった小野氏は、地方に役人として赴任することになり、
各地で土着化し武士になっていきました。
小野好古(884年~968年)は、藤原純友の乱の際に、
九州に下向して乱を鎮圧したとして、有名です。
一方、武蔵国(現在の関東)に下った小野氏の子孫は、
武蔵国多摩郡横山という地名にちなんで、横山氏と名乗るようになります。
横山氏は関東で勢力を伸ばし、近隣の武士の氏族と婚姻関係を結び、
武蔵七党という有力な武士団を結成します。
その後、武蔵七党は鎌倉源氏の傘下となり、鎌倉幕府を支える御家人として活躍しました。
小野政直・政次親子
戦国時代に遠江国(静岡県西部)の井伊家に仕えた、
小野政直、政次親子も小野妹子の子孫といわれています。
井伊家の家臣でありながら、たびたび謀反を起こしたり、
今川家と通じて井伊家を窮地に陥れたりしたことで、
奸臣(国を傾けた臣下のこと。)と呼ばれています。
息子の小野政次は、井伊家から当主の座を奪ったこともありましたが
最期は、井伊家に協力した徳川家康によって、あえなく討たれます。
悪いイメージの強い、政直・政次親子ですが、
近年、再評価する声もあるようです。
最近では大河ドラマ「おんな城主 直虎」(2017年)にて、
陰で井伊直虎を支えた人物として、小野政直が描かれています。
俳優の高橋一生さんが演じ脚光を浴びました。
きょうののまとめ
小野妹子の家系図と、有名な子孫をご紹介しました。
いかがでしたでしょうか。
簡単にまとめると
① 平安時代の代表的な子孫は、篁、小町、道風。
② 時代が下り、勢力が落ちると、地方に赴任し土着化し、武士になった。
③ 井伊家の奸臣、小野政直・政次親子も小野妹子の子孫である。
調べたところ、
現在の有名人では、女優のえのきさりなさんが小野妹子の子孫とのことでした。
今後の活躍が楽しみですね。
最後まで、読んでいただきありがとうございました。
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