ホーチミンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

フランスの植民地だったベトナムに生まれ、

生涯を懸けて祖国の独立に向けて生きた革命家、

ホーチミン

建国の父としてその偉大な功績が讃えられる一方で、

「ホーおじさん」という愛称で、身近な英雄としても親しまれています。

ホーチミンとは、一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は、その生涯に迫ります。

 

ホーチミンはどんな人?

プロフィール
ホーチミン

ホーチミン
出典:Wikipedia

  • 出身地:ベトナム ゲアン省ナムダン県キムリエン村
  • 生年月日:1890年
  • 死亡年月日:1969年9月2日(享年79歳)
  • 革命家、政治家。ベトナム独立運動の指導者にして建国の父。

 

ホーチミン 年表

年表

西暦(年齢)

1890年(0歳)フランスの植民地下にあったベトナムの、ゲアン省の村に生まれる。グエン・シン・クンと名付けられる。

1901年(11歳)父親の出世に伴い、一家でフエに移住する。

1910年(20歳)中学校で中国語、フランス語、体育の教員となる。

1911年(21歳)フランス商船に見習いコックとして採用され、サイゴン港からマルセイユ港へ渡る。その後、一度サイゴンへ戻るも再び同じ船で航海を続け、アフリカ諸国、南米を経てニューヨークへ。

1913年(23歳)英語を本格的に学ぶためにイギリスに渡り、労働しながら生きた英語を学ぶ。

1917年(27歳)第一次世界大戦を経験し、政治活動への関心が強まるなか、年の暮れにパリへ戻る。

1919年(29歳)フランス社会党に入党。翌年、フランス社会党機関紙に記載されたレーニンが書いた記事を読み、共産主義者を目指す。

1923年(33歳)ロシアに渡り、翌年の共産大会に出席。アジア担当の常任委員に選出され、共産主義者となる。次の年には、中国の広州に渡り、ベトナム共産党発足の足掛かりをつくる。

1930年(40歳)統一大会を開催。ベトナム独立を課題とする、ベトナム革命を目指した「ベトナム共産党」の結成が合意される。

1931年(41歳)フランスからの要請を受けた香港のイギリス警察によって逮捕される。約1年半の獄中生活を送る。

1933年(43歳)死刑宣告されるも、イギリス人法務官の弁護により助けられる。その後、フランスの捜索から逃れるため、中国人商人として変装し、香港を脱出。モスクワへと帰還する。

1938年(46歳)再び中国へ戻り、中国共産党と共に行動しながら、ベトナムの活動家と交流を図る。

1941年(49歳)第二次世界大戦に伴い、約30年ぶりに祖国ベトナムに戻る。「ベトナム独立同盟」を結成し、主席となる。

1945年(53歳)日本軍の敗北をチャンスと捉え、ベトナム8月革命と呼ばれる運動を開始。ベトナム全土を掌握すると、「ベトナム民主共和国」の国家主席兼首相に就任。

1946年(54歳)ベトナム民主共和国を政府として認めないフランス軍と、全面衝突。7年に渡る第一次インドシナ戦争の開始。

1951年(59歳)第2回党大会を開き、「ベトナム労働党」へと組織改革を行う。

1954年(62歳)ジュネーブで休戦協定が結ばれ、フランス軍が撤退するも、アメリカが干渉を開始し、翌年、「ベトナム共和国」成立。これにより、ベトナムは南北に分断される。ホーチミンは首相の座を後任に引き継ぐ。

1957年(66歳)党内人事や国内問題は後任たちに任せ、外交関係の仕事を担当するようになる。

1965年(74歳)ベトナム戦争の本格化。翌年、ラジオで独立を呼びかけ国民を鼓舞する。

1969年(79歳)9月2日、突然の心臓発作で倒れ死去。

 

ホーチミンの生涯

ここでは、ホーチミンの生涯の全体像をご紹介していきます。

異国の地を学び渡る

1890年、ベトナムのゲアン省の村で貧しい家庭に生まれた、ホーチミン。

彼は儒学者だった父の影響で、幼い頃から中国語を学んでいました。

そして中学、高校時代にはフランス語も学び、

一時は中国語、フランス語などの教師をしていました。

しかし、幼い頃からの世界を巡るために船乗りになりたい、という夢を叶えるため、

21歳の頃に、見習いコックとしてフランス行きの商船に乗り込みます。

一度父親に会うためにベトナムのサイゴンに戻りますが、再び船に乗り、

それ以降約30年間をフランス、アフリカ諸国、南米、アメリカ、イギリス、ロシアなど

異国の地で過ごすことになります。

この間にホーチミンは、第一次世界大戦やロシア革命などの波に揉まれ、

社会問題や政治に強い関心を示すようになっていきました。

政治家への道

三十路を前にしてフランス社会党に入党したホーチミンは、

その後レーニンの思想にも感化され、共産主義への道を歩み始めます。

そしてロシアに渡り、共産主義者として認められたホーチミンでしたが、

彼の目標は共産主義社会の実現よりも、ベトナムがフランスから独立することでした。

その後、中国に派遣された彼はそこでベトナム独立に向けた同志たちと交流を図り、

ベトナム共産党発足の足掛かりをつくります。

第二次世界大戦が勃発すると、祖国へ戻り「ベトナム独立同盟」を結成。

ホーチミンはその主席として日本軍との戦いに備えました。

1945年8月、日本軍の敗北が決まるとこの機会をチャンスと捉え、

民族解放を目指し蜂起を国民に呼びかけ、ベトナム8月革命を起こします。

そして全ベトナムを掌握し、「ベトナム民主共和国」を樹立。

ホーチミンはその首相に就任しました。

インドシナ戦争とベトナム戦争

その翌年、フランスがベトナム支配の回復を狙い、サイゴンを占拠すると、

ホーチミン率いるベトナム民主共和国と全面戦争に突入します。

インドシナ戦争と呼ばれるこの戦争は7年にわたって続き、

1954年、フランス軍の拠点が陥落したことで、ベトナムが勝利します。

しかしその後、アジアにおける共産圏阻止を名目にアメリカが南部に干渉を始めます。

そしてサイゴンを中心とする「ベトナム共和国」と、ホーチミン率いるベトナム民主共和国は

南北に分断され、ベトナム戦争に突入しました。

1969年、9月2日。ホーチミンは突然の心臓発作によってこの世を去ります。

ベトナム戦争が終結し、南北が統一したのはその6年後の1975年でした。

 

ホーチミンにまつわるエピソード

ここでは、ホーチミンの意外な逸話を2つご紹介します。

「ホーチミン」は自分で名付けた

ベトナムの市の名前にもなっている「ホーチミン」という呼び名。

実は生まれたときの名前ではないのです。

彼は生まれたときから少なくとも3回は名前を変えています。

一度目は実の父親によって、それ以降は革命活動のために異国の地を渡り歩き、

生き延びるための処世術として変更していたことが考えられます。

何度か死にかけていた!?

若い頃から祖国の独立を目指し、積極的に活動していたホーチミン。

そんな彼を当時の支配者だったフランスが見過ごすわけもなく、

彼が香港に滞在していた際、フランスから強い要請を受けていたイギリス警察によって逮捕され、

約1年半もの間、獄中生活を送ることになります。

一度は死刑を宣告され、おまけに当時結核を患っていたホーチミンは、

いつ死んでしまってもおかしくない状態でした。

しかし、彼の弁護にあたっていたイギリス人法務官のおかげで、

死刑を免れ、香港からの脱出に成功します。

その後ロシアに渡った際にも、多くの外国人が粛清の対象となるなか、

無事祖国に戻ることができ、第二次世界大戦の最中に中国共産党と接触を図るため、

国境を越えたところを蒋介石の秘密警察に捕まり、約1年牢獄をたらい回しにされましたが、

なんとか無事に帰還するなど、ホーチミンは数々の修羅場をくぐり抜けていました。

 

きょうのまとめ

今回はベトナム独立革命を指導し、建国の父として現代でも多くの人々に親しまれている

ホーチミンについて、その生涯をご紹介してきました。

ホーチミンとはどんな人物だったのか、簡単にまとめると

① フランスの植民地支配下にあったベトナム出身の政治家、革命家。

② ベトナム独立革命を指導し、第二次世界大戦後にベトナム民主共和国の樹立を宣言。主席兼首相となった。

③ インドシナ戦争でフランス軍を破ってベトナムを勝利に導いたが、ベトナム戦争では終結の6年前に死去。南北統一を目にすることはなかった。

偉大な業績を残しつつも、自身は質素な生活を好み、その遺言には、

人民のお金や時間を浪費しないよう、盛大な葬儀はしないでほしいと遺した

ホーチミン。

どこまでも祖国と民のことを想った彼は、その意思とは裏腹に、

皮肉にも神格化され、その遺体は防腐処理を施され、今も廟に安置されているのです。

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