アレクサンドロスの時代に繁栄していたのはペルシャ帝国です。
ペルシャ帝国はアフリカ、中東、インドなど広大な土地を2世紀半もの間治めてきました。
その広大な帝国を一体どのように征服していったのでしょうか。
アレクサンドロスが大王と呼ばれるまでの長く険しい道のり、東方遠征についてまとめました。
タップでお好きな項目へ:目次
征服した都市と各地の戦い
当時のペルシャ帝国は23州から成る多民族国家で、ギリシャ文明の民主制とは異なり専制君主制でした。
アレクサンドロスは『アジアの解放』を名目にギリシャからペルシャへと侵攻しました。
その7年もの歳月と約3000kmにも及ぶ大遠征の様子を順を追ってご紹介します。
グラニコス川の戦い
紀元前334年、3万7000のギリシャ連合軍を率いてアナトリア地方(現トルコ)に入りました。
そこで初戦の舞台となったのが、グラニコス川でした。
川を隔てた対陣のため、隊列が乱れる恐れがありましたが、アレクサンドロスは自ら先頭に立ち騎兵とともに突撃します。
途中、ペルシャ軍の弓矢部隊におされながらも川を渡りきり威嚇を崩します。
大将自ら先頭に立って迫って来るギリシャ軍に対して、ペルシャ軍の隊列は大いに乱れました。
激闘の末、勝利を納めます。
アレクサンドロスのカリスマ性を高めた戦いとなりました。
イッソスの戦い
紀元前333年、アレクサンドロスはペルシャ帝国の君主ダレイオス3世と戦います。
後に、絵画の出土から有名となる『イッソスの戦い』です。
グラニコス川の戦いで敗戦したダレイオス3世は、軍を増強し自ら指揮をとることになります。
一方、進軍を進めるアレクサンドロスですが、ダレイオス3世が補給線を断ち切るように進軍したため、引き返しながらイッソスでの戦闘に備えました。
ダレイオス3世率いるペルシャ軍10万、アレクサンドロス率いるギリシャ軍4万という数では圧倒的不利な戦いです。
しかし、アレクサンドロスはここでも威厳を発揮します。
・中央に長槍部隊
・右翼にはアレクサンドロス率いる重装歩兵
という隊列を組み、またも自ら中央のダレイオス3世目掛けて突撃します。
一方、ダレイオス3世はギリシャ軍の強さを目の当たりにし、戦場から逃走します。
大将を失ったペルシャ軍の隊列は乱れに乱れ、士気も下がる一方です。
その結果、5万人の戦死者を出したペルシャ軍に勝利します。
この戦いでペルシャは和睦を申し出ますが、アレクサンドロスはそれを拒み更に進軍を続けました。
ファラオとなったアレクサンドロス
アジア上陸から2年の歳月が経ち、60都市を支配下にしてきたアレクサンドロスは、地中海に沿って南下しエジプトに入ります。
この頃のエジプトはペルシャに征服されたばかりだったため、アレクサンドロスは『解放者』として迎え入れられました。
エジプトの文化や宗教を寛容にも認めたアレクサンドロスは『メリアムン・セテプエンラー』という名のファラオとなります。
そして、西の砂漠に都市を建設します。
これが現在の『アレキサンドリア』です。
ガウガメラの戦い
既に9州を支配下においたアレクサンドロスはペルシャの首都ペルセポリスを目指します。
紀元前331年、チグリス川の上流ガウガメラにて、またもダレイオス3世と激突します。
この時のペルシャ軍は25万といわれ、一方のギリシャ軍は4万7千でした。
ペルシャにとっては一歩も後に退けない総力戦です。
しかし、戦場での不利を察したダレイオス3世はまたも逃走します。
ギリシャ軍はペルシャの中枢を支配し、更にダレイオスを追撃します。
ところが、ダレイオス3世は家臣によって暗殺されてしまったのです。
これにより、アレクサンドロスがペルシャ帝国の新しい君主となったのです。
インドへの遠征
ペルセポリスを支配下においたアレクサンドロスは、当時の世界の果てといわれるインドを目指します。
当時のインドは、ペルシャ帝国の支配も及んでいない地域も多数ありました。
ペルセポリスを後にしたアレクサンドロスは、ヒンズークシュ山脈を越え、インド中央を目指します。
紀元前326年、山脈越えや部族との争いに疲れた部下が進軍を拒否したため、インド征服を目の前にして、ギリシャへの帰還を余儀なくされました。
その後3年の歳月をかけ無事ギリシャへの帰還を果たしました。
ペルシャ帝国の高度な文明
当初はペルシャ帝国とは、アジアを支配する野蛮な国と考えていたアレクサンドロスですが、
この大遠征を経てペルシャ帝国の文明の発達を目の当たりにし、ダレイオス3世に尊敬の念を抱くようになりました。
その尊敬の意を込めて、アレクサンドロスはダレイオス3世を丁重に埋葬し、暗殺者を厳しく処刑したほどでした。
そこでペルシャ帝国の高度な文明をいくつかご紹介します。
高度な情報網
広大な土地を持ち、23州もの州を持つペルシャ帝国ですが、そのすべてを掌握するのはほぼ不可能です。
そこで各都市には長官が配置されました。
長官と君主との間では、税金についてや反乱の気配についてなど、各都市で起こる様々な情報が交換されました。
高度な干害技術
ペルシャ帝国が支配する地域のほとんどは気温が高く、干害被害に悩まされていました。
干ばつが続くと農作物は育ちません。
そこで『カナート』と呼ばれる干害用地下水路が作られました。
これは地下に水路を掘り、日中は40度を超えるペルシャ帝国であっても途中で蒸発することなく遠くの農村に地下水を運ぶことができる高度な技術です。
高度な幹線道路
広大なペルシャ帝国を支えたのは『王の道』と呼ばれる幹線道路でした。
この幹線道路には、守備隊が置かれ、宿駅までありました。
約3000kmのペルシャ帝国の端から端を早馬で7日間で行けたといわれています。
きょうのまとめ
アレクサンドロスが大王となる東方遠征についていかがでしたでしょうか。
簡単にまとめると
① 初戦グラニコス川の戦いでは自ら先頭に立ち突撃しました。初戦での派手なパフォーマンスの結果、勝利を治めカリスマ性を高めました。
② 高度な文明に圧倒されペルシャ世界を認め、君主としての帝王学を学びました。
③ 東方遠征を経て、ペルシャ世界の文明や民衆に触れることにより真の『大王』となりました。
と言えるのではないでしょうか。
その他の世界の偉人ははこちらから
関連記事 >>>> 「世界の偉人一覧」
コメントを残す