徳川光圀は
「水戸黄門」、「水戸光圀」と呼ばれるように、水戸徳川家出身の人物です。
そこで、水戸藩を治めた水戸徳川家とその家系について見てみましょう。
タップでお好きな項目へ:目次
水戸徳川家とは
常陸国水戸にあった徳川氏の支流家系です。
徳川家康の十一男・徳川頼房を家祖として、江戸時代を通じて水戸藩(茨城県中部・北部)を治めました。
格式としては、三つ葉葵の家紋を使用することが許された徳川御三家の一つです。
徳川御三家とは、江戸時代において、徳川氏のうちでも徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた、
・紀州 徳川家
・水戸 徳川家
の三家のことです。
水戸徳川家は、尾張家・紀州家からみると格下の家柄だったとも言われますが、一般に御三家の一つとして数えられています。
水戸家は『大日本史』の編纂事業などで水戸学を奉じるバリバリの勤皇家。
の家訓があったとされています。
つまり、いざとなったら徳川家よりも天皇家を選ぶ覚悟のあった家系ということです。
徳川光圀以外で水戸徳川家出身として知られる人物には、九代藩主徳川斉昭がいます。
斉昭は藩校弘道館及び偕楽園造成者として、また日本最後の将軍十五代徳川慶喜の父として著名です。
ただ、慶喜は血縁上斉昭の息子ですが、水戸家の当主になっておらず、公的には一橋家から出た将軍と見なされています。
徳川光圀は生まれることを許されなかった子?
水戸徳川家の二代目藩主、徳川光圀は、初代藩主頼房の三男であり、徳川家康の孫にあたります。
実母は側室の久子(家臣の子)です。
実は、久子が光圀を妊娠したとき、彼女は頼房の正式な側室ではありませんでした。
久子は奥付きの老女の娘だったのですが、出入りするうちに頼房の寵愛を受けるようになったのです。
頼房は久子が最初に光圀の6歳年上の兄になる頼重を妊娠したときに
「水になすように(水子にするように)」
と堕胎を要求します。
しかし、久子の両親が命令に従わず久子に出産させました。
そして、光圀を妊娠したときにも同様に堕胎を指示されたのですが、結局光圀はその久子の家で誕生しました(『義公遺事 』)。
水戸徳川の家系図
水戸徳川家の支系
水戸徳川家には支系がありました。
・讃岐国高松藩の高松松平家
・陸奥国守山範の守山松平家
・常陸国府中藩の府中松平家
・常陸国宍戸藩の宍戸松平家
の四家です。
本家も含めて相互に養子のやり取りをしながら、他家から養子を迎えずに現代まで頼房の血統が続いています。
綱條と頼常
徳川光圀の正室は尋子です。
光圀と結婚して5年ほどで亡くなります。
その後、光圀は正式に側室を持つことはありませんでした。
光圀の息子には松平頼常がいたのですが、ちょっとここでややこしいやり取りがあります。
光圀の兄である頼重には息子の綱條がいました。
そして、光圀と頼重はお互いの息子を養子として迎えます。
光圀の息子の頼常は高松藩の二代目藩主となり、
光圀の後継として三代目水戸徳川家当主を継いだのは、光圀の兄の頼重の息子綱條。
これは、光圀が兄である頼重を差し置いて水戸徳川家の家督を継いだことを負い目に感じ、
光圀の次の代は頼重の息子に譲ることで、頼重の血統に水戸藩を返す、
という意味あいがあったと言われます。
徳川光圀は、自分の血が残らないことにはこだわらず、それより水戸徳川家全体の系統を考えていたようです。
つまり、系図的には水戸徳川家は、光圀個人の直接の子孫ではなく、頼重の血筋の家系となります。
一方、光圀の息子である頼常はその後養子を取って高松藩を継がせているので、光圀の直結の子孫が高松藩を継いでいるわけでもありません。
しかし、光圀と血を分けた兄の頼重の血族は続いており、九代斉昭を経て、十三代徳川圀順が『大日本史』を完成させ、その息子十四代圀斉へ。
そして現在は、徳川斉正氏が十五代目当主です。
現在財団法人水府明徳会会長理事を経て、益財団法人徳川ミュージアム理事長、東京海上日動火災保険株式会社の執行役員としてご活躍中です。
フェイスブックで時折情報発信などもされているようですよ。
おわりに
徳川光圀直系ではありませんが、光圀と血を同じくする遺志を継いだ子孫の方が、
水戸徳川家の歴史的遺産を現代に継承されているのは素晴らしいことですね。
これからも未来に向けて光圀の思いを繋げていただきたいです。
その他の人物はこちら
江戸時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【江戸時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す