埼玉県川越市には春日局ゆかりの建物が残っています。
関東大震災と戦争の空襲によって江戸城の建物は消失していますので、
歴史的にも貴重なものとなります。
しかしなぜ川越に春日局ゆかりの建物があるのでしょうか。
春日局と川越の関係について調べて見ました。
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春日局と川越の関係は?
春日局と川越はどんな関係があるのでしょうか。
詳しく見ていきましょう。
春日局の部屋がある喜多院
喜多院は埼玉県川越市にある天台宗の寺院です。
川越大師の名前でも知られています。
平安時代の初期に淳和天皇の命で建立されました。
天長7年(830年)の建立なので、1100年以上の歴史を持つ古刹(古い寺)でもあります。
建立当時は「無量寿寺」という寺院名でしたが、慶長4年に喜多院と改めます。
関東天台宗の総本山に定められ、500石の寺領を賜るなど発展しますが、寛永15年(1638年)に起きた「川越大火」によって山門と経蔵以外の全てが焼け落ちてしまいます。
この川越大火では、「城下町の3分の1以上が焼け落ちた」と言われています。
その翌年に三代将軍・徳川家光の命によって江戸城紅葉山御殿の一部が喜多院に移築されました。
そのため、春日局が使っていた部屋が川越の喜多院に残っているのです。
そのままそっくり移築されたので、春日局の部屋だけでなく、
家光が生まれた部屋や、トイレ、お風呂まで残されています。
なぜ川越に移築された?
喜多院に春日局の部屋があるのは、江戸城の一部が移築されたからという理由は分かりましたが、
なぜ家光は喜多院にそこまで手を差し伸べたのでしょう。
大火によって消失したとは言え、「喧嘩と火事は江戸の花」と言うくらい当時の日本は火事が多くそれほど珍しいことではありません。
江戸城の一部を賜れるというのは大変な名誉です。
当時の喜多院の住職は、天海でした。
天海と言えば、徳川家康に仕え江戸の町や江戸城の設計にも関わったと言われる人物です。
特に家康に影響を与えた人物だとされています。
その天海が住職の寺院が焼け落ちてしまったのです。
おじいちゃん大好きっ子の家光としては、放っておけなかったのでしょう。
実際に江戸城紅葉山御殿の一部は、天海が家光から譲り受け、解体されて川越まで運ばれ喜多院に移築されました。
つまり天海が喜多院の住職だったから、江戸城は川越に移築されたのです。
移築が生んだ恩恵
江戸城紅葉山御殿は解体されて、川越まで運ばれることになりますが、
陸路で運ぶには無理があります。
そこで使われたのが、新河岸川の舟運です。
新河岸川の舟運は江戸と川越を結ぶ主要の運搬路として、江戸時代から昭和初期までなんと約300年間も続きました。
新河岸川の舟運のはじまりは、江戸城の移築だとされています。
江戸城が川越に移築されることがなかったら、新河岸川の舟運は発展しなかったと言うことになります。
新河岸川の舟運は資材の運搬だけでなく、江戸の華やかな文化を川越にもたらしました。
まさに江戸城移築が生んだ恩恵と言えるのではないでしょうか。
きょうのまとめ
春日局と川越の関係を見てきましたが、いかがでしたか?
川越と 春日局の縁を結んだのは家光でした。
川越に行けば、春日局が使っていた部屋を間近で見ることが出来ます。
近くに行く機会があったら、ぜひ春日局を感じてみてください。
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