明治維新で活躍した人々の死因をご存じでしょうか?
今回は、岩倉具視の死因とまさかの暗殺未遂事件について簡単にご紹介します。
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岩倉具視の死因
1883年7月20日、倒幕活動をすすめて明治新政府を作り上げた一人である政治家・岩倉具視は59年の生涯を閉じました。
岩倉使節団として欧米各国を訪れ、明治憲法や天皇制の確立などに尽力した人物でもあります。
日本初のがん告知を受ける
1883年に入り、岩倉は体調を崩します。
それでもなお、仕事を続けていたといいます。
そしてついに、当時東大で講義を行っていたドイツ人医師のベルツによって、このような診断を受けます。
咽頭がん。切除は不可能。
これは史実に残る上では、日本で初めてのがん告知と言われています。
明治天皇自らも見舞いに訪れますが、岩倉は回復することなくこの世を去りました。
日本初の国葬
そして1883年7月25日、これは亡くなった岩倉具視の国葬が執り行われた日です。
国葬というと国家に大きな功績を残した人物に対して、国費で葬儀を行うことです。
なんと日本で初めて国葬が行われたのが、岩倉具視でした。
これまで日本で国葬が行われたのは21名、戦後においては吉田茂元首相のみです。
岩倉具視暗殺未遂事件・赤坂喰違の変
そんな岩倉具視ですが、がんで亡くなる9年前、実は暗殺されかけていたのです。
1874年、当時は右大臣であった岩倉具視が武市熊吉ら9名に襲撃されました。
死を免れるも負傷
場所が東京の赤坂喰違見附という場所だったので、その事件は赤坂喰違の変と呼ばれています。
実はこの場所、大久保利通が暗殺された紀尾井坂の近くにあるのです。
なぜなら、当時の皇居は臨時的に赤坂の迎賓館にあったので、政府の主要人物の出入りも多かったと考えられます。
襲撃を受けた岩倉ですが命は助かったものの、負傷しました。
岩倉具視が襲われた理由は征韓論争にあった
では、なぜ岩倉は襲われなくてはいけなかったでしょうか。
答えは当時の政治情勢にありました。
岩倉が赤坂で襲われた前年、明治政府内では大きな論争が巻き起こっていました。
武力を使ってでも朝鮮を開国しようという征韓派と、それよりも国内政治を優先させるべきとする内地優先派が争った征韓論争です。
征韓派と呼ばれたのは、西郷隆盛や板垣退助らでした。
それに対して岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らは内地優先を主張していました。
なぜなら欧米諸国を視察してきた彼らは、まだまだ日本の近代化は遅れていることを痛感していたからです。
結局この論争は、内地優先派の勝利に終わりました。
一方、敗れた征韓派は一斉に下野(官職をやめて民間に下ること)しました。
この結末は、岩倉の画策によるところが大きいと見られ、岩倉は多くの恨みを買うことになりました。
そしてこの結果を良く思わない征韓派たちの手によって、暗殺計画が持ち上がったのでした。
その後、岩倉を襲った者全員が死刑に処されています。
きょうのまとめ
今回は、幕末から明治にかけて活躍した政治家・岩倉具視の死因と暗殺未遂事件についてご紹介しました。
岩倉具視は、
① 日本初のがん告知を受けた人物だった
② 日本初の国葬が行われた人物でもあった
③ 実は暗殺未遂事件(赤坂喰違の変)に遭遇していた
といえます。
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