メンデルスゾーンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

19世紀前半にドイツで活躍した音楽家、

フェリックス・メンデルスゾーン

ロマン派を代表する重要な作曲家の一人であり、ピアニストとしてもリストやショパンと並び称されました。

メンデルスゾーンとは一体、どの様な人物だったのでしょうか。

今回はその生涯を辿りながら、彼の遺した功績について見ていきましょう。

 

メンデルスゾーンはどんな人?

プロフィール
メンデルスゾーン

1839年に描かれた肖像画
出典:Wikipedia

  • 出身地:ドイツ ハンブルク
  • 生年月日:1809年2月3日
  • 死亡年月日:1847年11月4日(享年38歳)
  • ドイツの作曲家。ロマン派を代表する一人。

 

メンデルスゾーン 年表

年表

西暦(年齢)

1809年(0歳)北ドイツのハンブルクにて、ユダヤ系の両親の元に誕生。

1811年(2歳)ナポレオン軍による侵略から逃れるため、一家でベルリンに移住。幼い頃から姉と共に、母からピアノを習う。

1816年(7歳)当時の一流音楽家や教師から、ピアノ、ヴァイオリンなどを習う。

1818年(9歳)公開演奏会で神童ピアニストしてデビューを果たす。

1819年(10歳)ツェルター(1758~1832)から作曲を学び、厳格な作曲技法を身に着ける。本格的に作曲を始める。

1820年(11歳)ツェルター主宰の合唱協会に入会し著名な宗教曲を歌う。マリア教会にてオルガンを習い始める。

1823年(14歳)自作曲の初出版。ピアノ曲、歌曲、ヴァイオリン曲など、多くの作品が相次いで出版される。

1829年(20歳)ジングアカデミー(合唱協会)でバッハの《マタイ受難曲》の復活上演を成功させる。イギリスに演奏旅行。

1830年(21歳)約2年に渡りヨーロッパ全域を巡る旅に出る。

1833年(24歳)帰国した後、ロンドンやデュッセルドルフの演奏会で指揮し、成功を収める。デュッセルドルフの音楽監督となる。

1835年(26歳)ライプツィヒ・ゲヴァントハウス・オーケストラの5代目指揮者に就任。

1841年(32歳)プロイセン王からの要請を受け、ベルリンでの仕事も兼任するようになる。ドレスデンのザクセン王室楽長にも就任。

1842年(33歳)プロイセン音楽監督に就任。

1843年(34歳)ライプツィヒ音楽院を開校。自身も作曲とピアノを教える。

1844年(35歳)ベルリンから完全に離れ、1年間保養地で静養しながら作曲を行う。《ヴァイオリン協奏曲》など。

1845年(36歳)ライプツィヒに定住し、指揮者の仕事や作曲を行う。

1847年(38歳)ゲヴァントハウス・オーケストラの指揮者を引退する。イギリス10回目の演奏旅行。姉の急逝の報せにショックを受け、スイスで静養。ライプツィヒに帰国後、10月9日に突然の発作で倒れる。10月末に昏睡状態に入り、11月4日に死去。

 

メンデルスゾーンの生涯

ここからは早速、メンデルスゾーンの生涯を主な功績と共にご紹介していきます。

約束された成功

1809年、ハンブルクでユダヤ系の一族のもとに誕生したフェーリクス・メンデルスゾーン。

彼の祖父は著名な哲学者で、父親はドイツ屈指の銀行を創始した人物でした。

裕福な家庭に育ったメンデルスゾーンは、幼い頃からピアノやヴァイオリンなどを習い、一流の指導者たちからあらゆる教養を授かる恵まれた少年時代を過ごしました。

また彼自身も幼い頃からその類まれな才能を覗かせ、9歳で神童としてピアニストデビューを果たします。

そして10歳頃からツェルター(1758~1832)の弟子として作曲を学ぶと、

・弦楽交響曲
・協奏曲
・宗教曲
・合唱曲
・ピアノ曲
・オルガン曲

等々、4年で100作を越える作品を生み出しました。

14歳で初の自作曲の出版、16歳の時の作品《弦楽八重奏曲》や翌年の《夏の夜の夢》序曲が代表作となるなど、10代で既に怒涛の活躍ぶりを見せているのです。

《弦楽八重奏曲》

《夏の夜の夢》

バッハへの貢献と更なる飛躍

まさに早熟の天才とも言うべき功績を生み出しているメンデルスゾーンですが、彼が20歳の時に音楽史上でも重要な出来事が起こります。

師匠のツェルターが主宰する合唱協会に所属していた彼は、そこでバッハ作曲《マタイ受難曲》約100年ぶりに上演し、成功させたのです。

これにより、既に過去の作曲家となりつつあったバッハとその音楽的重要性が再認識され、確固たるものとしてその地位を固めることになりました。

現代に伝わる偉大な音楽家バッハの名声は、実は20歳のメンデルスゾーンに支えられていたというわけです。

20代のメンデルスゾーンは、活躍の場をさらに広げていきます。

・イギリスへ演奏旅行(生涯で10回の訪問)

・ヨーロッパ全域に約2年の旅に出る

・デュッセルドルフの音楽監督に就任(この地のあらゆる音楽活動に従事)

・オーケストラの指揮者に就任

等、出版を続けていた自作曲の浸透や演奏会の成功、演奏家としての人気などが彼の出世を次々と後押しすることに。

特にヨーロッパへの旅では、大都市で演奏会の機会を探したり、大手出版社に自作曲を持ち込んだりと、自分を売り込むことも忘れませんでした。

この時期に作曲したピアノ曲《無言歌》や交響曲《スコットランド》などには、各土地で受けたインスピレーションを積極的に自作に取り入れています。

一方で《最初のワルプルギスの夜》など、祖国ドイツへの愛を強めたと思われる作品も遺しています。

栄光の対価

30代になったメンデルスゾーンは相変わらず忙しく、ドイツ各地の王侯貴族たちから熱烈に要請されてはその地の音楽監督を務めるなど、

音楽家としてのありとあらゆる職に奔走しています。

特に20代で就任したライプツィヒのオーケストラ指揮者としての彼は、定期演奏会において現代にも通じる指揮者の姿を示したり、

団員の社会保障にも目を向けたりという様に、組織運営者としての能力も発揮しているのです。

それはやがて、シューマンらと共にライプツィヒ音楽院を設立し、教鞭を執ることにもつながっていきました。

幼少時代からほとんど留まることを知らずに走り続けたメンデルスゾーン。

しかしその輝かしい活躍と功績は、やはり彼自身の命を削ることで成り立っていたようです。

あまりの多忙さに、メンデルスゾーンは30代で既に心身の疲労と体力の限界を感じるようになりました。

指揮者を引退し、徐々に活動する地域を狭め、保養地での作曲に注力するようになります。

そして迎えた1847年。

メンデルスゾーンが38歳になったその年は、彼にとって実に様々なことが起きた年でした。

4月~5月にかけ、イギリス各地でオラトリオ《エリヤ》の演奏や、ヴィクトリア女王夫妻が臨席する演奏会などの過密なスケジュールをこなします。

そして帰国の際に立ち寄ったフランクフルトで、共に音楽教育を受けて育った姉の急逝の報せを受けたのです。

既に両親も喪っていた彼は、疲労とショックが重なり一度に気力を失います。

夏に妻や子供たちとスイスなどの保養地を訪れ、英気を養い再び作曲を再開しますが、意欲が再燃したのも束の間10月に発作で倒れてしまいます。

一度は回復したようにも見えましたが、10月末に昏睡状態に入り、11月4日に還らぬ人となりました。

死因は脳卒中だと言われています。

 

メンデルスゾーンにまつわるエピソード

ここでは、メンデルスゾーンの人物像に迫るべく、彼にまつわるエピソードをご紹介します。

恵まれた境遇

裕福な家庭で恵まれた教育を受けて育ったメンデルスゾーンですが、彼は人脈の面でも少年時代から恵まれていました。

師匠ツェルターに連れられて文豪ゲーテに会いに行ったり、父と訪れたパリでは天才ピアニストのリストと知り合いになり、楽壇の重鎮ケルビーニに才能を認められたりしています。

またメンデルスゾーン一家の自邸には、ハイネやフンボルトなどの知識人も多く出入りしており、メンデルスゾーン少年は多くの良質な教養に触れて育ったのでした。

挫折も経験

輝かしい功績ばかりのメンデルスゾーンですが、実は挫折も経験しています。

16歳の時に作曲したオペラは、彼にしては珍しく苦心の末に完成させたにも関わらず後の初演が不評に終わります。

そしてツェルターの死後、ジングアカデミーで後任の指揮者に立候補するも落選しています。

彼が育ったベルリンの地であまり積極的に活動をしなくなったのは、そんな苦い思い出が関係していたとも考えられるのです。

 

きょうのまとめ

今回はロマン派の音楽家、メンデルスゾーンについてその生涯を主な功績やエピソードと共にご紹介していきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、メンデルスゾーンとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① 19世紀ドイツの作曲家、指揮者、演奏者。

② ロマン派最初期を代表する人物。

③ 短い生涯での活動は多岐にわたる。

幅広い教養に裏打ちされたロマン派初期を代表する彼の作品は、詩的で親しみやすいものばかり。

現代人でも知らぬ間にどこかで耳にしている作品が多いはずです。

 

【参考文献】

・ブリタニカオンラインジャパン 大項目事典「メンデルスゾーン」
・メンデルスゾーンhttps://enc.piano.or.jp/persons/363

 
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