大庭景親とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は、平氏討伐を掲げて挙兵したあと、一度だけ敗戦を経験しました。

伊豆にて流人の立場から挙兵した直後の「石橋山の戦い」です。

このとき、頼朝を敗走させた武将が

大庭景親おおばかげちか

そもそもは源氏の味方だったところから、時勢を踏まえ平氏方に傾いていったこの人物。

兄の大庭景義が源氏につき、袂を分けた逸話でも知られています。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、カンヌ国際映画祭でも受賞経験のあるベテラン俳優・國村隼さんが配役に決定!

放送にさきがけて、いったいどんな人物だったのか、しっかりおさらいしておきましょう。
 

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大庭景親はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:相模国大庭御厨おおばのみくりや(現・神奈川県高座郡南部)
  • 生年月日:1140年?
  • 死亡年月日:1180年11月15日(享年41歳)
  • 「石橋山の戦い」で、源頼朝を敗走させた平家家人。のちに勢力を強めた頼朝に屈し、降伏、処刑されることになった。

 

大庭景親 年表

年表
西暦(年齢)

1140年?(1歳)相模国の豪族・大庭景宗の三男として生まれる。

1156年(17歳)「保元の乱」に源義朝の兵として参陣。兄景義の負傷により、家督相続者となる。

1160年(21歳)「平治の乱」のあと一時囚人となるも助命され、その恩義から平氏に従うようになる。

1180年(41歳)平氏討伐を掲げた以仁王もちひとおう、源頼政を破る。「石橋山の戦い」で源頼朝に勝利。のちに勢力を強めた頼朝に降伏し、片瀬(現・神奈川県藤沢市)で処刑された。

 

大庭景親の生涯

以下より、大庭景親の生涯にまつわるエピソードを紹介します。

源氏に忠誠を誓う豪族として


1140年ごろ、大庭景親は相模国(現・神奈川県)の豪族・大庭景宗の三男として生を受けました。

大庭氏は桓武天皇の後裔にあたる鎌倉政景の支流にあたり、政景によって開かれた大庭御厨おおばのみくりやを代々運営していた一族。

御厨とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌しんせん(神社や神棚への供え物)を調進する場所のことで、本来は神饌を用意するための屋舎を意味します。

つまるところ、朝廷から現地の事務を任される役人の位置付けにあたります。

兼ねてから、兄の大庭景義は源氏の棟梁・源義朝に忠誠を誓っており、景親もこれに従っていた様子。

1156年、後白河天皇と崇徳上皇が皇位を争った「保元の乱」では兄弟そろって源義朝に従い、後白河天皇側の兵として従軍しました。

このとき、源為義と対峙した景義が膝を射抜かれ、景親は兄を庇いながらの撤退を余儀なくされます。

以降、景義が歩行困難になったことを理由に、大庭家の家督は景親が受け継ぐこととなりました。

源氏方から平家方へ

長らく源氏に従ってきた景親でしたが、1159年、「平治の乱」で源義朝が討たれ、源氏が没落したことで命運が動き始めます。

この戦でも源氏に与していた景親は一時囚人となるも、平家側の配慮で許されることに。

これは源氏側の兵でも、景親は義朝と比較的疎遠だったことが理由とされています。

恩義を感じた景親は、平氏の棟梁・平清盛に名馬を贈ったという話。

ここから平氏の配下となって尽力し、東国において御後見おしろみという重役にまで出世しています。

その後、朝廷内で覇権をほしいままにしていく平氏と後白河法皇が対立。

1180年に、法皇の第三皇子・以仁王もちひとおうが平氏討伐を掲げて挙兵した際には、足利忠綱らと協力してこれを破りました。

ここまでで、平氏の家人のなかでも景親はかなりのキーパーソンに育っていたことがわかりますね。

源頼朝の挙兵と兄弟の決裂

このように、平治の乱以降、大庭氏は平家の家人として力を強めていきました。

しかし兄景義の源氏への忠誠は、この期にあってもかわっていません。

以仁王を討ったあと、大庭兄弟は平氏の有力家人・伊藤忠清から、伊豆へ配流となっていた源頼朝が挙兵を企てているという噂を伝え聞きます。

すると、

・景義:頼朝に協力することを決意

・景親:弟の俣野景久とともに、頼朝の討伐を決意

というように、兄弟で意向が真っ二つに割れてしまうのです。

このとき景親がひとつ失態を侵している点も、興味深い話。

内々に源氏を支持していた佐々木秀義に頼朝討伐の相談をもちかけたことで、頼朝に情報が伝わってしまうのです。

討伐隊が差し向けられることを知った頼朝は挙兵の時期を早め、さらに佐々木もそれを助けるべく、自身の息子4人を頼朝のもとへ送っています。

景親は意図せず、敵に塩を送ることになってしまったのですね。

「石橋山の戦い」から降伏まで

以後、伊豆で挙兵した頼朝は、伊豆目代の山木兼隆を下したのち、相模国へ。

ここで立ちふさがったのが、景親が率いた3000の兵でした(石橋山の戦い)

このとき、頼朝は300人ほどしか兵を連れていません。

討伐隊が来ることを知っていたとしても、この兵力差があってはどうにもならず、頼朝はここで挙兵後唯一の負けを経験するのです。

山中へ逃れた頼朝を景親はすぐさま捜索しますが、このとき、ともに従軍していた梶原景時が、頼朝を発見しておきながら見逃したという話。

こうして頼朝は一命を取り留め、安房国あわのくに(現・千葉県南部)へ渡って体制を立て直すことに成功するのです。

その後、鎌倉入りを果たした頼朝は20万を超えるほどの一大勢力となっていきます。

焦った平氏方は討伐を向かわせるものの、あまりに強大になりすぎた鎌倉方を前に戦わずして敗走(富士川の戦い)

このとき、景親も1000の兵を率いて参じようとするも、鎌倉方に阻まれて本隊に合流できずにいました。

その後、河村山(現・神奈川県足柄上郡山北町)へ退いて様子を見ていましたが、平氏方の負けを知って降伏することに。

降伏後の采配は鎌倉方の有力御家人・上総広常かずさひろつねに任せられ、結果、景親は処刑されることとなります。

幕府御家人として重用された景義

景親が処刑されてしまった反面、頼朝に従った景義は、鎌倉幕府の御家人として重用され、以後長寿を全うしています。

源氏への旧恩を重んじた景義と、平氏によって囚人の身から赦免された恩に報いようとした景親。

どちらを忠義とするかは難しいですよね。

一説では、お家存続のため、意図的に兄弟で源氏と平氏に分かれたという話もあったり…。

ただ、景親が降伏した際、頼朝から「助命を嘆願するか?」と聞かれた景義はこれを断ったといいます。

やはり、単にそれぞれの意志に従った結果だったのでしょうか?

 

きょうのまとめ

源氏と平氏の狭間で、大きく揺れ動く生涯を送った大庭景親。

頼朝の挙兵をいち早く阻止しようと動いたその判断を見るに、この人もまた並々ならぬ武将であったと想像できます。

また、当初は敗走を余儀なくされた頼朝の勢力拡大の凄まじさにも、驚かされるものがありました。

最後に今回のまとめ。

① 「保元の乱」において、大庭景親は源義朝の兵として従軍。このとき、兄景義が負傷したことで、大庭家の相続者となる。

② 「平治の乱」で賊軍として討たれた源氏が没落。景親も囚人となるが、平氏の配慮で赦免され、以後、恩義に報いるため家人として尽力する。

③ 源頼朝が平氏討伐を掲げ挙兵すると、兄景義は頼朝に味方し、景親は平氏勢として従軍。お家存続のため、袂を分けたという説もある。

④ 景親は「石橋山の戦い」にて一度は頼朝を破るも、以後勢力を増した頼朝に歯が立たず降伏。処刑されることとなった。

もし石橋山の戦いで、景親が頼朝を取り逃がしていなければ、平氏の時代はまだまだ続いていたかもしれません。

鎌倉幕府の成立は、いかにも奇跡的な出来事だったのですね。

 
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