川村恵十郎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

大河ドラマ『青天を衝け』にて、一際鋭い眼光で異彩を放っている人物、

川村恵十郎かわむらえじゅうろう

一橋家家臣で、渋沢栄一が一橋家に仕えるきっかけを作った人です。

配役は波岡一喜さん。

剣の達人のような雰囲気から気になる人ではありますが、大名などと比べるとやっぱりマイナー。

でも、実はけっこう活躍した逸話が多かったりするんですよ。

川村恵十郎とは、いったいどんな人だったのか?

以下より紹介していきます。
 

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川村恵十郎はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:武蔵国多摩群上長房かみながぶさ村(現・八王子市裏高尾町)
  • 生年月日:1836年8月18日
  • 死亡年月日:1898年6月13日(享年62歳)
  • 渋沢栄一、喜作らを一橋家へ引き入れた一橋家家臣。徳川慶喜の駿府移封までを添い遂げた、数少ない側近。

 

川村恵十郎 年表

年表

西暦(年齢)

1836年(1歳)小仏こぼとけ関所番・川村正朝まさともの長男として生まれる。

1855年(20歳)小仏関所番見習いとして出仕。

1863年(28歳)一橋慶喜に、幕府と朝廷の関係についての建白書を出す。普請役見習いといして一橋家家臣となる。

1864年(29歳)水戸藩士の襲撃を受け、撃退する。ともにいた平岡円四郎は死亡。

1873年(38歳)新政府へ出仕。台湾出兵の事後処理のため、大久保利通に従って清国へ渡る。

1893年(58歳)新政府を辞任し、日光東照宮の神職を務める。

1898年(62歳)死没。

 

川村恵十郎の生涯

以下より、川村恵十郎の生涯に起きた詳しいエピソードに迫りましょう!

関所番から一橋家家臣に

徳川慶喜

1836年、川村恵十郎は、武蔵国の小仏関所番・川村正朝まさともの長男として生まれます。

(※小仏関所…高尾山にあった武蔵国と相模国をつなぐ関所)

幼少から天然理心流の剣術を習い、武に長けた人物だったという話。

20歳のころには、父の跡を継いで小仏関所番見習いとなります。

そして28歳のころ、関東の幕府直轄地を統制していた伊豆・韮山にらやま代官所の伝手で、一橋慶喜の側近・平岡円四郎と引き合わされることに。

このとき、川村は幕府と朝廷の関係について、慶喜に宛てた建白書を平岡に手渡したとされています。

当時、諸外国との条約締結、大老の暗殺事件などで幕府の権威は失墜しており、朝廷に近づくことで、その回復が図られていました。

幕府と朝廷が協力して政治を行っていこうとするこの政策を公武合体こうぶがったいといいます。

そんな時勢に際し、薩摩藩をはじめとする雄藩は、朝廷に取り入って自身らも幕政を操ろうと目論んでいました。

台頭した雄藩の発言権は、自国の軍事力をもってするもの。

対して一橋家は徳川宗家の家族という位置づけで直轄領がなく、あまり兵を抱えていませんでした。

そこで川村は、農民から見込みのある者を家臣として登用するべきだと、平岡に提案したのです。

これが平岡の思惑とも合致しており、この年から川村は一橋家家臣として仕えることとなります。

渋沢栄一・喜作との出会い

自身が唱えた農民の家臣登用も、川村が指揮することに。

この状況において、江戸で出会った活きのいい農民が渋沢栄一と喜作の2名でした。

川村は栄一らと何度か話をしたのち、家臣に引き入れようと平岡にふたりを引き合わせます。

栄一たちが、横浜外国人居留地焼き討ちを画策し、攘夷じょういの野望に燃えていたこの時期。

(※攘夷…外国人を追い払おうという考え)

相反するはずの幕府側に彼らを引き入れ、そのエネルギーを活かそうとした発想はすごいですよね。

栄一と喜作は一橋家に仕えたあと、川村の直属の部下として扱われたようです。

『青天を衝け』12話では、幕府に目を付けられた栄一らが川村に捕らえられ、平岡のもとへ連れていかれるシーンがありました。

実際はもっと穏便な出会い方をしていたようですね。

平岡円四郎暗殺事件


1863年、朝廷が幕府に攘夷決行の勅命を出し、横浜港を鎖港するか否かが当面の問題となっていました。

鎖港すると言うだけなら簡単ですが、条約を結んだ海外諸国が認めるはずがないからです。

これに対し、一橋慶喜と諸藩主たちによって開かれた参預会議で、諸藩主たちが攘夷の決行は無理だと主張。

慶喜はここで藩主たちの意見に流されては主導権を握られてしまうと考え、断固として鎖港を行うと主張するのです。

このくだりは『青天を衝け』14話でも描かれていましたね。

実は、このときの慶喜の態度が仇となって、家臣の川村、そして平岡円四郎が犠牲になってしまいます。

事件は1864年6月、一橋家家老・渡辺孝綱を訪ねた帰り道、川村と平岡が水戸藩士2名の襲撃に逢ってしまうのです。

「一橋慶喜は攘夷を決行すると言ったくせに、攘夷は一向に行われない。側近たちがそそのかしているからに違いない!」

そんな世論に動かされたふたりによって、平岡は命を落とすことになるのです。

川村は重傷を負いながらもふたりを斬り伏せ、平岡の仇を取りますが、

このとき、眉間に刻まれた切り傷は生涯残ることとなりました。

以降、川村は戊辰戦争を経て、慶喜が静岡で謹慎になるまでを添い遂げた数少ない側近であったという話。

鳥羽伏見の戦いで、慶喜が兵を取り残し、江戸へ逃げ伸びた際も同行していたといいます。

家臣となった当初は、とても慶喜に直接会える身分ではなかったとされていますが、このころには相当な信頼を得ていたのですね。

明治以降の動向

明治以降、川村は新政府へ出仕

1873年には大蔵卿の大久保利通に従い、台湾出兵の事後処理を巡る清国との交渉に随行しています。

その後は宮内省や、内閣の役人などを務め、1893年に辞任。

以降は没年まで、日光東照宮にて禰宜ねぎを務めました。

(※禰宜…宮司の補佐をする神職のこと)

日光東照宮といえば、東証大権現とうしょうだいごんげん(徳川家康)が主神であることでも有名ですよね。

新政府の時代が訪れてもなお、川村の旧幕府への忠誠心は健在だったのでしょう。

 

川村恵十郎は朝廷にも働きかけていた?

川村の人物像を物語るこんな逸話があります。

一橋慶喜が、朝廷の守備を担う禁裏守護総督きんりしゅごそうとくについていた1865年のこと、

朝廷はその功績を評し、慶喜に

・摂津

・河内

・和泉

の三国を与えると言い出したことがありました。

朝廷を味方につけるという幕府の企てはうまくいっているように見えますよね。

でも…これには大きな問題があったんです。

この時代の慶喜はあくまでも、将軍家の一家臣に過ぎません。

一家臣の所領というのは、朝廷ではなく将軍から与えられてしかるべきもの。

そのため、この朝廷の申し出は幕府内で物議を醸すことになるのです。

公武合体で権利関係も曖昧になっていたのでしょうか…?

結局、慶喜もこれを辞退しているのですが、

興味深いのは、このとき川村が孝明天皇の右腕だった皇族・中川宮にことの重大性を直訴していることです。

一橋家の一家臣という立場ながら、朝廷の幹部に意見できるほど、弁の立つ人だったということですよね。

家臣が少なかった慶喜ですが、その内実は少数精鋭で揃えられていたのでしょう。

 

きょうのまとめ

大名の一家臣で、重役でもなかった川村恵十郎が、歴史上で注目される機会はそう多くはありません。

しかし、その生涯を辿ってみると、渋沢栄一が幕臣となるきっかけを作っていたり、

水戸藩の暴徒を成敗していたり、活躍したエピソードがいくつも出てきました。

最後に今回のまとめ。

① 川村恵十郎は、朝廷と幕府、諸藩の関係を巡って一橋慶喜に建白書を提出。その意見が慶喜側近の平岡円四郎に気に入られ、一橋家に入った。

② 一橋家には家臣が少なかったため、川村は農民から兵を募ろうとした。その経緯から、渋沢栄一、喜作と出会うことになる。

③ 攘夷を行わない幕府にしびれを切らせた水戸藩士たちにより、平岡が暗殺される。川村は犯人を斬り伏せ、その仇を取った。

④明治以降は新政府に出仕。大久保利通に従い、台湾出兵を巡る清国との交渉にも随行した。

関所番の立場から平岡に意見が認められ、一橋家へ入ったこと、

新政府でも重要な役目を担っていることを見るに、川村が優秀な人物だったことは間違いなさそうですね。

 
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