16世紀のロシア・モスクワ公国の大公、イワン4世。
その容赦ない恐怖政治から、日本では「雷帝」の名でも知られている人物です。
暴君のイメージが強い彼は、一方で民衆に支持された時期もありました。
イワン4世とは一体、どの様な人物だったのでしょうか。
今回は、その生涯に迫ります。
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イワン4世はどんな人?
- 出身地:モスクワ公国(現在のロシア)
- 生年月日:1530年8月25日
- 死亡年月日:1584年3月18日(享年53歳)
- 16世紀モスクワ公国の皇帝。日本では「雷帝」として知られる。
イワン4世 年表
西暦(年齢)
1530年(0歳)モスクワ大公の後継者として誕生。
1533年(3歳)父ヴァシーリー3世が病死し、大公として即位。
1547年(17歳)ツァーリとして即位。実質的な政務を開始。
1553年(23歳)大病により生死をさまよう。快癒巡礼中に長男の事故死。
1564年(34歳)退位宣言。「非常大権」を要求。
1570年(40歳)「ノブゴロド虐殺」を実施。
1581年(51歳)次男とその妻を撲殺。
1584年(53歳)死去。
イワン4世の生涯
ここからは早速、イワン4世の生涯についてその主な功績と共にご紹介していきます。
名君と暴君
16世紀のロシアに位置していたモスクワ公国。
この公国で、父親の病死によりわずか3歳で大公に即位したイワン4世。
彼は17歳で正式にツァーリとして戴冠すると、以降本格的に政務を行っていくことになります。
ちなみに「ツァーリ」とは、イワン4世の祖父であるイワン3世から始まったロシア皇帝の称号です。
大公よりも上の位を意味し、その地位の高さを明確にするためのものとして、20世紀前半まで用いられました。
イワン4世は、正式に戴冠した最初の人物となります。
ツァーリとなった彼を見ていく上でまず押さえておきたいのが、その二面性について。
イワン4世はその在位期間が2度に分割されていて、全体で考えたときにその評価は前半と後半で極端にわかれるのです。
以下でそれぞれについて見ていきましょう。
名君時代
まずは17歳~34歳までの前半期間。
イワン4世のこの期間における政務は比較的に優れているものが多く、民衆からの支持も厚いものでした。
というのも、彼が政権を握った当初は上流貴族やロシア正教会の勢力が拡大し、好き勝手に自分たちの利益を追求している様な状態だったのです。
これに対しイワン4世は、ツァーリとしての絶対的な立場を示した上で、その腐敗を正すべく改革を行っていきます。
・ロシア正教会を公国の組織下に帰属させる
など、国のトップとしてふさわしく国を正そうとする姿は、民衆の味方として彼の評価を高いものにしています。
また彼は、この時期から以降生涯に渡り少しづつ領土拡大を行っていきます。
目立った功績ではありませんが、現在のロシアが世界一の広大な領土を誇っているのは、イワン4世が東方面の小国を徐々に帰属させていったことから始まっているのです。
そして、ロシアを代表する建築物のひとつ、「聖ワシリイ大聖堂」を建てたのもこの時期。
現在ではロシアの観光名所としてお馴染みのこの建物は、イワン4世が戦勝記念として建てさせたものでした。
傾き始める
腐敗貴族に容赦なく、民衆の暮らしを考える。
名君とも言えるイワン4世の統治は、20代半ば頃から徐々に狂いを見せ始めます。
・強国ばかりで困難な西方への遠征
など、ツァーリとして日々悩みの種の尽きない生活を送る中、イワン4世は次第に自身の怒りをコントロールできなくなっていったのです。
猜疑心が強くなり、うわさ話にも敏感になっていきました。
そして30代を迎える頃には、自身の統治に反対意思を示す貴族たちを粛清。
反対勢力に対して容赦ない姿勢を見せたことで、貴族たちとの対立が顕著になっていきます。
その姿に、臣下たちさえも徐々にツァーリへの信頼を失くしていきました。
そんな中、イワン4世は30代半ばで突如退位を宣言したのです。
そして暴君へ
一度は自らツァーリの座を降りたイワン4世。
ところがいざ退位されてみるとたちまち政務は滞り、貴族たちは慌てて彼を呼び戻さなくてはならなかったのです。
イワン4世は再即位する際に条件として、「非常大権」を認めるよう貴族たちに要求します。
これは、無制限に自身の権力を認めさせるというものでした。
認めざるを得なかった貴族たちがこれに頷いてしまったことで、以降イワン4世の暴君ぶりは歯止めが利かなくなっていくのです。
彼の2度目の在位期間は、35歳~53歳までと死去するまで続きます。
そしてこの後期に行ったことが彼の評価を低いものとし、現在の「雷帝」のイメージに繋げていきます。
例えば、
・オプリーチニキによる「ノヴゴロド虐殺」を指示
・無謀な侵略戦争を繰り返す
などは、イワン4世の恐怖政治を語る上で有名です。
「オプリーチニキ」というのは彼の親衛隊組織で、イワン4世はこの組織以外の人物のことは全く信用しませんでした。
そして彼らを秘密警察としても動かし、粛清や虐殺を実行させています。
こうしてイワン4世のかつての名君ぶりは跡形もなく消え、残ったのは民衆や周辺諸国からの深い憎しみと恐怖だけとなったのです。
愛する者たちの死
ここでは、イワン4世の人物像に迫るべく、彼にまつわるエピソードをひとつご紹介していきます。
30代を境に暴君と化したイワン4世。
そのきっかけとして考えられるのが、皇妃の死です。
皇妃アナスタシアは、正式にツァーリとなった17歳の時に結婚した貴族の娘で、彼にとって非常に重要な存在でした。
じつは元々短気で不安定な性格だったイワン4世。
そんな彼をいつもそばで宥め、落ち着かせてくれたのが、聡く穏やかな彼女だったのです。
その皇妃が、あるとき急速に衰弱して死去。
さらにはイワン4世の少年時代からの師も、この時期に病に倒れてしまいます。
苛立ちが募っていた時期に相次いで大切な者たちを失ったことで、彼の猜疑心は一段と深まっていったのです。
ちなみにイワン4世は、
・51歳のときに次男とその妻を自ら撲殺する
という様に、心から信頼していたはずの身内の不幸が続いています。
特に次男に関しては、自身に逆らったという理由で逆上し、妊娠していた夫人もろとも殴り殺してしまったのです。
我に返ったときには既に遅く、彼はその後を後悔と懺悔に明け暮れたと言われています。
そしてかつての自身の暴政を含めた罪滅ぼしの最中、2年後に死去します。
しかしその死因について、確かなことはわかっていないのです。
きょうのまとめ
今回はモスクワ公国の正式な初代ツァーリ、イワン4世についてその生涯を一緒に見てきました。
いかがでしたでしょうか。
何か新たな発見は得られましたか。
最後に、イワン4世とはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① 16世紀のロシア、モスクワ公国の大公にしてツァーリ。
② 統治前期には、貴族の腐敗を正し民衆に支持される政治を行った。
③ 30代半ばの後期からは、中央集権的な恐怖政治で暴君として皆に恐れられた。
人の一生は、自身の意思だけでなく、周囲の環境や人間関係からも大いに影響を受けるのだということを、イワン4世の生涯からは感じます。
暴君と呼ばれることになる人物の多くが、本来は繊細で不安定な性格ゆえに、恐怖を拭うべく極端な行動に走ってしまうように思われます。
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