広田弘毅とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

第32代内閣総理大臣・広田弘毅ひろたこうき

太平洋戦争後、文官としてA級戦犯の罪に問われた数少ない人物です。

広田の外交に対する姿勢は、いつも和平を志したものでした。

それなのに戦争犯罪人になったの?

と、疑問を抱かざるを得ませんが、当時の外交事情は軍部との兼ね合いを巡り、それほど複雑な状態にあったのです。

広田弘毅とはいったいどんな人物だったのか。

その生涯や功績、戦犯となった経緯に迫ります。

 

広田弘毅はどんな人?

プロフィール
広田弘毅ひろたこうき

首相在任時(1936年)
出典:Wikipedia

  • 出身地:福岡県那珂郡鍛冶町なかぐんかじちょう(現・福岡市中央区)
  • 生年月日:1878年2月14日
  • 死亡年月日:1948年12月23日(享年70歳)
  • 第32代内閣総理大臣。外交による和平を模索し、戦争に反対し続けた。戦後、A級戦犯として死刑に処されるも、その判決に多くの判事が疑問を唱えている。

 

広田弘毅 年表

年表

西暦(年齢)

1878年(1歳)福岡県那珂郡鍛冶町なかぐんかじちょう(現・福岡市中央区)にて生まれる。

1898年(20歳)福岡県立修猷館しゅうゆうかん(現・修猷館高校)を卒業。第一高等学校(現・東大教養部)へ進む。

1903年(25歳)東京帝国大学法学部へ入学。

1904年(26歳)外務省官僚・山座円次郎の命で朝鮮、満州、シベリアを偵察。

1905年(27歳)東京帝国大学を卒業。

1906年(28歳)高等文官試験を首席で合格。外務省へ入る。

1907年(29歳)清国公使館付外交官補となり、北京へ赴任。

1909年(31歳)三等書記官としてロンドン大使館へ赴任。

1913年(35歳)外務省通商局第一課長となる。

1919年(41歳)ワシントン大使館へ赴任する。

1923年(45歳)外務省欧米局長となる。

1925年(47歳)日ソ基本条約の締結に尽力。ソ連との国交を回復させる。

1927年(49歳)オランダ公使となる。

1930年(52歳)駐ソ連特命全権大使となる。

1933年(55歳)斎藤まこと内閣にて、外務大臣に就任。

1936年(58歳)岡田啓介内閣の総辞職を受け、内閣総理大臣となる。

1937年(59歳)衆議院議員・浜田国松と、陸軍大臣・寺内寿一ひさいちの論争が激化し、内閣総辞職にいたる。続く第一次近衛内閣にて、外務大臣となる。

1938年(60歳)外務大臣を辞任。貴族院議員となる。

1942年(64歳)日泰攻守同盟条約の特派大使としてタイを訪れる。

1945年(67歳)GHQ総司令部により、A級戦犯容疑者として逮捕される。

1948年(70歳)東京裁判で死刑を言い渡され、絞首刑となる。

 

少年期

1878年、広田弘毅は福岡県那珂郡鍛冶町なかぐんかじちょう(現・福岡市中央区)にて生まれます。

玄洋社にて学ぶ

広田の父は、石材屋を営む広田徳平。

農家から徒弟に出され、真面目さを見込まれて広田家の養子となった人物です。

広田も父の仕事を手伝っており、水鏡すいきょう天満宮の鳥井に掲げられた「天満宮」の字は、広田が書いたもの。

幼少から書道を習っており、字を書くのが得意だったのです。

そのほか広田は、玄洋社という政治結社の柔道場にも通っており、柔道もかなりの腕前だったのだとか。

同時に玄洋社は孔子の『論語』など、漢学も教えており、これらは広田の精神面の礎になったといいます。

外交官を志したきっかけ

少年期の広田は陸軍に入ることを志していました。

しかし地元の中学、修猷館しゅうゆうかん(現・修猷館高校)に通っていたころ、国交を巡るとある事件をきっかけに、外交官を志すようになります。

1895年、日清戦争に勝利した日本は、中国と下関条約を結び、遼東半島りょうとうはんとうを割譲されました。

これに対し、フランス・ドイツ・ロシアがその返還を要求する「三国干渉」を行い、日本は遼東半島の返還を余儀なくされます。

この事実を目の当たりにした広田は

「日本は外交が弱すぎる」

と、痛感。

自身が優秀な外交官となるべく、第一高校(現・東大教養部)への進学を決めました。

広田は学年でもトップクラスの学力をもっていましたが、家柄は貧しく、この進学に際しても玄洋社の支援を受けたという話です。

覚悟を物語る改名

広田の幼名は丈太郎で、外交官を目指すことを決めると同時に「弘毅」と改名しています。

その意味は論語の一節

孔子
士は弘毅ならざるべからず

を引用したもので、

・弘=広い見識

・毅=強い意志

を示しています。

この時代、改名は出家している人ぐらいにしか許されなかったため、広田はお世話になっていた僧侶を頼り、1年出家したことにしてもらったという話。

名前まで変えてしまうとは、相当な覚悟を感じさせられますね。

 

外務省時代

第一高校から東京帝国大学法学部へと進んだ広田。

このころには、外務官僚を務めていた玄洋社社員・山座円次郎に気に入られ、満州や朝鮮、シベリアの視察に向かっています。

卒業するまでに、外交官を目指す身としてこの上ない経験をしているわけですね。

外交官に

そして、卒業と同時に高等文官試験を受けて外交官に…。

と、思っていたのですが、実のところ、広田はこの試験に一度落ちているのです。

そう、若いころの広田は決して優秀な人材ではありませんでした。

英語がすこぶる苦手だったといい、アメリカ大使館に務めたときには、

「英語が下手すぎる」

といって、通訳を降ろされたこともあったといいます。

ただ、広田は1906年に外交官となって以来、右に出る者はいないぐらいの猛勉強を積んでいったのです。

努力の末、外務省の重要人物に

広田は外務省入りを果たしてから20年余り、ヨーロッパを中心にさまざまな国の大使館へ務めました。

その間、同僚からの遊びの誘いには一切応じず、職務以外の時間をほとんど勉強に費やしていたといいます。

また、政治家の演説に耳を傾ける群集に近づき、直接意見を聞くことでその国の政治の流れを探ることもしていました。

生活のすべてを賭した努力によって、広田の才覚は磨かれていったのです。

こうして、幣原喜重郎しではらきじゅうろうが外務大臣を務めた時代には、幣原と並ぶ外務省の重要人物と考えられるほどに。

1925年に結ばれたソ連との日ソ基本条約、それに伴う国交の回復は、広田の功績によるものとされています。

外務大臣として中国との交渉を担当

1933年、広田は斎藤まこと内閣にて外務大臣に就任、続く岡田啓介内閣でも歴任しています。

外務大臣となった広田は、満州国の承認を巡ってピリついていた中国との交渉を担当。

帝国議会にて

「私の在任中、戦争は断じてないということを確信しております」

と主張するなど、あくまで平和的な方法で交渉を行う姿勢を示していました。

ただ、それも一筋縄ではいかず…。

この時期は満州を起点に、陸軍が独断で中国への侵攻を進めようとしていた時期。

満州事変や、犬養毅いぬかいつよし首相が暗殺された五・一五事件など、その動向はかなり過激なものになっていました。

そのため、中国との融和を唱えるにしても陸軍を刺激しない内容に留める必要があり、実際の外交はあまり上手くいっていないのです。

広田の外務大臣としての功績が評価されていないのは、難しい時期にその官職を任されたがゆえといえます。

 

内閣総理大臣として

1936年、陸軍将校によるクーデター未遂「二・二六事件」が勃発。

大蔵大臣の高橋是清これきよ、内大臣の斎藤実らが殺害され、岡田内閣が総辞職に追い込まれます。

これを受け、広田に組閣の大命が下ることとなりました。

広田が首相に任命された理由は?

広田が首相に選ばれたのは、日中関係を巡って過激さを増す陸軍を抑えられる人材と目されたからです。

前任の岡田啓介にしても、海軍出身者で、陸軍をけん制できる人材であったため、首相に選ばれています。

しかし、その岡田でさえも将校たちの襲撃を受ける事態に。

こうして、陸軍に受けのいい人物として貴族院議員・近衛文麿このえふみまろが推挙されるのですが、近衛はこれを辞退。

「それなら外交に見識の深い広田がいい」

ということになり、広田が選ばれるのです。

昭和天皇はこの人選に対し、

「広田は名門の出ではないが、大丈夫か」

と口にしたという話。

これは、ほかの閣僚から軽んじられることを懸念してだったといいます。

旧薩摩藩・長州藩出身者による藩閥政治も終わりを迎え、家格を問わず政治家を目指せるようになっていた当時。

しかし、太平洋戦争直前のこの時期でも、まだ前時代の名残があったのですね。

大規模な軍縮を行うも、陸軍の暴走は止まらず…

広田が首相が務めた時期はわずか11か月

その間、約3千人に上る陸軍軍人の人事異動を行い、大規模な軍縮に乗り出しています。

「二・二六事件」を受け、軍部の暴走を食い止めるべく動いたわけですね。

そもそも広田は

「軍を粛清するために組まれた内閣だ」

と、組閣に対して思いを抱いていたようです。

ただ、やはり陸軍の要求には慎重にならざるを得ず、代償として

・軍部大臣現役武官制(現役の大将や中将が陸海軍大臣となる制度)の復活

・軍備拡張予算の成立

などを認めることに。

この動向に対し、1937年1月、衆議院議員・浜田国松は陸軍の横暴を非難する演説を行います。

陸軍大臣・寺内寿一ひさいちはこれに激怒。

衆議院の解散を訴える事態にまで発展しました。

解散に反対した広田は説得を行いますが、寺内は断固として意見を取り下げず。

最後は内閣不統一により、広田内閣が総辞職することとなります。

陸軍を抑え込むために組閣された内閣が、陸軍に振り回された挙句、総辞職となる。

この動向を見るだけでも、当時の陸軍がどれほど暴走していたかがよくわかりますね。

 

太平洋戦争を経て「A級戦犯」に

1945年の終戦を迎えると、広田はGHQ総司令部によってA級戦犯の罪に問われ、逮捕されてしまいます。

首相辞任後の1937年、広田は近衛文麿内閣にて外務大臣となっており、その際の諸政策の影響を罪に問われることとなったのです。

具体的には、

「日中戦争に際し、陸軍を止めようとせず静観した」

という内容でした。

広田は日中戦争に対して不拡大方針を示していましたが、陸軍の勢いを止められず、結局は占領地域の拡大に妥協せざるを得ませんでした。

ドイツ大使を通じて中国との和平交渉も模索しましたが、それも占領地域拡大に伴って決裂してしまいます。

そう、広田は戦争にはあくまで反対していたものの、陸軍に押し切られる形でその決行を認めることとなってしまったのです。

事実を見てみると、A級戦犯とされたことにはやはり、疑問を感じる部分もありますよね。

実際、広田には死刑判決が下るのですが、その結果は

有罪:6人

無罪:5人

という、僅差で決まったもの。

無罪を主張した判事の多くが判決を疑っており、弁明次第では罪を免れていたとされています。

それでも、広田は裁判の席で一切の弁明を行いませんでした。

どうして?

御前会議や重臣会議にも参加した広田は、被告人のなかでは昭和天皇と特に関わりの深い人物。

そんな自分が余計なことを口走ってしまえば、天皇陛下に害が及んでしまいかねない。

広田はこれを懸念して、裁判の席で沈黙を貫いたのです。

妻の静子はその意志を汲み、1946年5月18日、開廷前に服毒自殺しました。

後ろ髪引かれる想いを捨てて裁判に臨めるよう、広田を送り出したのですね。

こうして迎えた1948年12月23日、絞首刑によって、広田弘毅はその生涯を終えることとなりました。

 

きょうのまとめ

「日本には優秀な外交官が必要だ」

その信念のもと、文官を志した広田弘毅。

彼の行った政策の多くは、平和的な解決を念頭に置いたものでした。

当時は「消極的すぎる」という意見も多かったといいますが、陸軍が勢いづいていた時勢を思えば、突き通せない部分が多かったのだろうな、と感じさせられます。

戦争に賛成するわけにはいかないけど、反対すれば内乱が起きる…本当に難しい時代です。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① 広田弘毅は幼少より書道・柔道・論語に励み、その精神面の礎を築いた。修猷館中学時代、遼東半島の返還を余儀なくされた日本の外交を憂い、外交官を志すようになった。

② 外務省に入った広田は、職務以外のほとんどの時間を勉学に充て、外務大臣にまで上り詰めた。外交に関しては各国と協調路線を示すものの、陸軍の勢いに押されてうまくいかず。

③ 首相になると、暴走する陸軍を粛清するために大規模な人事異動を行った。しかし陸軍の勢いは止まらず、軍事予算や軍部の権益拡大を迫られる。

④ 外務大臣として、日中戦争を止めなかったことを理由にA級戦犯となる。東京裁判では天皇陛下へ害が及ぶことを懸念し、一切の自己弁護を行わなかった。

やはり、自身の身を顧みず、一切の弁明を行わなかったことに、責任感の強い人柄が表れていますね。

 
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