江戸時代、オランダ商館付医師として日本を訪れた学者
エンゲルベルト・ケンペル。
ヨーロッパにおける日本研究を一気に前進させた立役者です。
彼の著書『日本誌』ほど詳細な日本研究は当時として見当たらず、多くの学者がこれを参考にしています。
そしてケンペルの研究対象は、なにも日本だけではありません。
彼の生涯を辿れば、その壮大さにきっと驚かされるはずです。
エンゲルベルト・ケンペルとは、いったいどんな人物だったのか、以下より辿っていきましょう!
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エンゲルベルト・ケンペルはどんな人?
- 出身地:ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州レムゴー
- 生年月日:1651年9月16日
- 死亡年月日:1716年11月2日(享年 65歳)
- 江戸時代、オランダ商館付医師として来日したドイツの学者。死後、未発表原稿をまとめた『日本誌』は100年以上読み続けられる大著となった。
エンゲルベルト・ケンペル 年表
西暦(年齢)
1651年(1歳)ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州レムゴーにて、牧師の息子として生まれる。
1683年(32歳)スウェーデン国王カール11世の使節団に参加。中東を視察し、政治の仕組みや文化、遺跡などさまざまな記録を残す。
1688年(37歳)オランダ東インド会社の船医となり、インド、東南アジア諸国を歴訪。
1689年(38歳)インドネシア・バタヴィアに滞在。往来のオランダ商人や知識人から日本の情報を多数得る。
1690年(39歳)オランダ商館付医師として日本へ渡る。2年の滞在期間で二度江戸へ参府し、将軍・徳川綱吉に謁見した。
1694年(43歳)オランダ・ライデン大学に論文を提出し、博士号を取得。ドイツで開業医となる。
1712年(61歳)アジア各地の見聞をまとめた著書『廻国奇観』を出版。
1716年(65歳)死没。
1727年(76歳)収集家ハンス・スローンにより、未発表の原稿が英訳され『日本誌』が出版される。
エンゲルベルト・ケンペルの生涯
ここからはエンゲルベルト・ケンペルの生涯を詳しくみていきましょう。
幼少期
1651年、エンゲルベルト・ケンペルはドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州のレムゴーという街で生を受けました。
人類史上最大とも謳われる「三十年戦争」の爪痕が残る当時、ケンペルも殺伐とした幼少期を送ることとなります。
今となっては嘘のような話ですが、このときは「魔術を使った」と怪しまれる人物に向け、魔女裁判が行われていた時代。
ケンペルも魔女裁判で叔父を亡くす経験をしています。
このあと彼が学問に明け暮れたのも、この悲痛な経験となにか関係があるのかもしれません。
ケンペルはドイツ、ポーランド、ロシアとさまざまな大学で、以下のように学を重ねていきました。
・哲学
・言語学
・政治思想
・医学
・博物学
学問に勤しむなかできっと、そんな想いを抱いていたのではないでしょうか。
中東・東南アジアを巡る旅
ケンペルがヨーロッパを飛び出し、世界を旅するきっかけとなったのが、1681年のこと。
この年に彼はスウェーデンのウプサラ大学へ入学し、ザムエル・フォン・プーフェンドルフという学者と出会います。
このプーフェンドルフが、スウェーデン国王・カール11世にケンペルを推挙したことで、彼は中東諸国を巡る使節団に随行することになるのです。
旅の中でケンペルはその土地の文化をはじめ、さまざまなものを記録していきました。
特に…
・ペルシア(現・イラン)の首都ペルセポリスの遺跡
これらについて記述したヨーロッパ人は、ケンペルが初めてだったといいます。
あまり触れられてこなかった事柄を研究対象にしていることに、学術的な貢献をしたいという意志が伺えますね。
そしてケンペルの探求心はまだまだ留まることを知りません。
ペルシアの南の街バンダレ・アッバースに使節団が訪れた折、その港にはオランダ艦隊が停泊していました。
これをチャンスと見るや否や、ケンペルは使節団と別れ、船医としてオランダ艦隊に随行するのです。
オランダ艦隊は東南アジアでの貿易を目的にしており、これについていけばさらなる新境地を開拓できると考えたわけですね。
いざ!日本へ
インドや東南アジアを巡り、1689年にケンペルが辿り着いたのはインドネシア・バタヴィア(現・ジャカルタ)。
この土地には日本に行き来するオランダ商人や、日本の文化に興味を示す知識人が多くいました。
ケンペルもここで情報を多数入手し、日本への興味を募らせていきます。
当時の日本は鎖国真っ只中、西洋人からすればそれこそ未知の国ですからね。
そして1690年から、ケンペルはオランダ商館付医師として約2年間、日本に滞在することになります。
日本での生活においても、ケンペルは土着の文化や動植物について研究を行いました。
とはいっても、オランダ人は出島からの外出を禁止されており、日本の研究をするのは容易ではありません。
そこで助けになったのが、オランダ商館に助手として出入りしていた今村源右衛門でした。
源右衛門はケンペルに代わって日本の情報収集を務め、出島に持ち帰る役目を担ったのです。
持ち帰られた資料のなかには、日本の地図や幕府の役職名鑑なども。
これらは当時、持ち出し禁止の機密文書なので、バレていたらケンペルも源右衛門も捕まっていたかもしれません…。
源右衛門は自身の身を挺して、ケンペルに協力していたわけですね。
見返りとしてケンペルは外国語をはじめ、自身が持ち得るあらゆる学問を源右衛門に教えました。
後年、源右衛門が第8代将軍・徳川吉宗に通訳として重用されたのも、この下地があってこそのものでしょう。
ちなみにケンペルは滞在中、江戸に二度参勤し、第5代将軍・徳川綱吉に謁見。
このときも源右衛門が随行しました。
晩年の日本研究
1694年、オランダヘ戻ったケンペルは、ライデン大学にて、日本の動植物に関する論文を提出。
博士号を取得します。
その後は故郷のレムゴーで開業医となることに。
以降、持ち帰った資料の研究に励みましたが、妻との仲がうまくいかなかったり、仕事が忙しかったりで難航していたようです。
そして1712年のこと、やっとの思いで出版にこぎつけたのが、アジア諸国を巡った記録『廻国奇観』。
「分類学の父」と称されたスウェーデンの生物学者カール・フォン・リンネも、日本の植物についてはこの本を参考にしたといいます。
とはいえ、廻国奇観に記された日本の研究はほんの一握り。
後年、ケンペルはさらに研究を進め、『日本誌』という大著を残します。
ケンペルの死後、未発表の原稿をまとめたこの書籍は1727年に出版され、ヨーロッパの日本研究を一気に推し進めました。
幕末の時代、日本にやってきたペリーもこの本を重宝したという話。
ペリーの時代といえば、書籍の出版からは100年以上も経っています。
それでもこれ以上に詳しい情報がないぐらい、ケンペルの日本研究は優れていたのです。
きょうのまとめ
江戸時代、日本を訪れ、その文化や魅力をヨーロッパに広める役目を担ったエンゲルベルト・ケンペル。
そこにいたるまでには、学問の末に辿り着いた壮大な旅が繰り広げられていました。
最後に今回のまとめです。
① エンゲルベルト・ケンペルが生まれた時代、ドイツは三十年戦争のあとで殺伐としていた。その生い立ちがケンペルを学問の追求に向かわせた?
② スウェーデン国王・カール11世の使節団に参加し、中東を視察。その後はオランダ艦隊に随行し、インドや東南アジアを訪れた。
③ オランダ商館付医師として来日したケンペルは、助手の今村源右衛門の助けを借り、日本のあらゆる資料を集めた。なかには持ち出し禁止の代物も!?
④ ケンペルの死後、未発表原稿をまとめた『日本誌』は100年以上読まれ続け、幕末の時代に日本を訪れたペリーも重宝していた。
未開の地で、命を張って研究に勤しんだその姿勢には、やはり敬意を抱かざるを得ませんね。
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