1948年12月23日、元首相兼陸軍大臣の東條英機が、太平洋戦争における「A級戦犯」の罪で絞首刑に処され、この世を去りました。
「開戦と敗戦を招いた張本人」「政府の権利を一手に握ろうとした独裁者」
というようなイメージが長いあいだ語られてきた東條ですが、実情は違ったことが近年の研究で明らかになってきています。
今回紹介するのは、そんな東條の遺言の一部。
その文面の端々から、日本の行く末を案じる東條の人柄を感じてみてください。
タップでお好きな項目へ:目次
東條英機の遺言
東條英機の遺言はひとつだけではなく、いくつも残されています。
・逮捕されるまでの期間に残された「英米諸国人に告ぐ」「日本同胞国民諸君」「日本青年諸君に告ぐ」の3つ
・判決から死刑執行までに記された教誨師・花山信勝による口述筆記
このうち、戦争のことや日本の今後について触れられているのが、逮捕されるまでの期間に書かれたものと、死刑執行までのものです。
それぞれは似通っている部分も多いので、今回は死刑執行までに書かれたものを抜粋して紹介することにします。
自身の罪に対する見解
東條は自身に下された判決に対し、遺言の冒頭で以下のように語っています。
開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。今回の刑死は個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は死をもってあがなえるものではない。
しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈服した。(中略)この裁判は結局は政治的裁判で終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
東條は日米開戦に際し、昭和天皇の命を受けて戦争回避に尽力しました。
しかし検討もむなしく、開戦せざるを得ない状況に…。
自分の力不足ゆえに、天皇陛下や国民には苦しい思いをたくさんさせることになってしまった。
これに関しては、死刑という罰は受けて当然のものという認識をしていたようですね。
ただし、その判決を下したのが連合国軍であるということには納得がいっていませんでした。
日本はアメリカから不利な要求をされて戦争に踏み切ったがゆえ、「太平洋戦争は日本を守るための自衛戦争である」というのが、東條の考えだからです。
先に攻撃したのは日本だけど、そう仕向けたのはアメリカ。
勝者の意向だけが汲まれていく現実に、東條は悔しさを露わにしています。
大東亜共栄圏について
1943年11月、東條は欧米諸国の植民地支配から逃れ、アジア各国の独立・政治的連携を促す「大東亜共同宣言」を行いました。
これはアメリカとの戦争の大義名分を得る意味もあったのですが、以下の文面を見ると、東條はそういったものを抜きにしても、大東亜共栄圏の実現を目指していたのだと感じさせられます。
東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相協力すべきものである。東亜民族もまた他の民族と同様に天地に生きる権利をもつべきものであって、その有色たるをむしろ神の恵みとしている。(中略)列強も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちをもって進むべきである。
侵略・支配ではなく、共存していく。
なにより世界平和を願う考え方ですね。
しかし東條は以下のようにも述べており、上述のような世界を実現する難しさを感じている側面もあったようです。
国家から慾心を除くということは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。
アメリカへの願い
太平洋戦争の終戦を受けて、日本は連合国軍に統治される身となりました。
支配下に置かれる日本国民を案じ、アメリカへの願いを綴った箇所も東條の遺書にはあります。
どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。また日本人が赤化しないように頼む。大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにせねばならぬ。
「米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい」という表現が少し難解に感じますが、要は“一方的に支配するのではなく、共に進んでいけるよう譲歩してほしい”ということでしょう。
赤化というのは、共産主義を推進する団体がはびこること。
当時の日本では共産主義者を危険分子と見なしていました。
また、戦死者や遺族の扱いについても、東條は以下のようにお願いしています。
我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出生地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。戦犯者の家族には保護を与えられたし。
処刑される自分たちが罪を一手に背負うので、そのほかの者を犯罪者扱いするのはどうかやめてほしい。
特に戦犯者の家族については、東條自身も当事者であるため心配だったでしょうね。
実際、遺族は連合国軍からの扱いというより、日本人からの差別に相当苦しんだといいます。
日本の今後について
今後の日本の内政についても、終盤で少し触れられています。
我が国従来の統帥権独立の思想はたしかに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない。(中略)わが国民性を鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。
再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。この点については、大いに米軍に学ぶべきである。
陸軍の参謀本部、海軍の軍令部は、それぞれ戦争に際した軍の指揮を担う組織ですが、これらは政府の支配下にない、天皇直轄の組織でした。
そのため政府が軍の指揮に関与できず、思惑通りに戦争を進められない場面が多々あったのです。
東條も軍と政府が連携を取れないことに困り果て、自身が首相と陸軍大臣、参謀総長を兼任する強硬手段に出ています。
自身が苦労したからこそ、遺言にもこの話題を取り上げたのでしょうね。
アメリカの軍隊からも学ぶものがあると言っているのもまた印象的。
敵国だからといって毛嫌いするわけではなく、公正な立場で見ていることが伝わります。
さらに教育に関しても、以下のように言及しています。
学校教育は従前の質実剛健のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切だ。言いかえれば、宗教教育である。欧米の風俗を知らす事も必要である。
宗教を取り入れていけというのは、要するに自分の核となる考えをもっていなければいけないということでしょう。
たしかに学校の五科目のような勉強だけだと、精神的な成熟を得るには不十分なのかもしれません。
投獄されてからの東條は仏教を熱心に学んでいたといいますから、その影響もあるのでしょう。
宗教となるといきなりはとっつきにくい部分もあります。
為になる本をたくさん読む…みたいなことは、私たちもしていきたいですね。
東條英機・辞世の句
東條は遺言と同時に、辞世の句も残しています。
我ゆくもまたこの土地にかへり来ん
国に報ゆることの足らねば
たとえ死んでしまったとしても、また生き返って国のために尽くしたい。
そう思うぐらい、自分は国のためにしたいことがまだまだあった…という感じでしょうか。
道半ばで首相を辞した悔しさ、戦争回避を望む昭和天皇の期待に応えられなかった不甲斐なさ。
たしかに東條としては、まだまだやり残したことがたくさんあるという思いだったでしょう。
この時代ならではの愛国心も感じさせられる句です。
きょうのまとめ
東條英機の遺言を一読し、筆者が感じたのは
「これだけ真面目に日本のことを考えられる人が、どれだけいるだろう」
ということでした。
自分はこれから処刑されてしまうというのに…。
そんな真面目で思いやりのある東條の姿を、もっと広く伝えていけたらいいですね。
最後に今回のまとめです。
① 東條英機は、天皇や国民を苦しめる結果を招いた自分は、死刑に処されて当然だと捉えていた。しかし戦争をしたのはあくまで自衛のためで、アメリカから罪に問われる筋合いはないと考えていた。
② アジア各国が植民地支配から解放され、連携を取りながら繁栄していく「大東亜共栄圏」の実現を本気で望んでいた。
③ 日本を統治するアメリカに対しては「共に歩んでいけるよう、譲歩してほしい」と訴えている。また罪に問うのは、自分たちで終わりにしてほしいとも。
④ 軍事における制度の問題や教育に関しても考えを述べ、これからの日本をよくしていくためのアドバイスをしている。
気になる人はぜひ目を通してみてください。
その他の人物はこちら
明治時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【明治時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す