ジョルジュ・ビゼーとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

19世紀のフランスで活躍した作曲家、

ジョルジュ・ビゼー

代表作に『アルルの女』、『カルメン』等を遺した彼は、30代の若さでこの世を去っています。

ジョルジュ・ビゼーとは一体どのような人物だったのでしょうか。

今回は彼の生涯について、その功績やエピソードと共に辿っていきましょう。

 

ジョルジュ・ビゼーはどんな人?

プロフィール
ジョルジュ・ビゼー

ジョルジュ・ビゼー
Georges Bizet

  • 出身地:フランス パリ
  • 生年月日:1838年10月25日
  • 死亡年月日:1875年6月3日(享年36歳)
  • フランスの作曲家。代表作『アルルの女』、『真珠採り』、『カルメン』

 

ジョルジュ・ビゼー 年表

年表

西暦(年齢)

1838年(0歳)フランスのパリで、声楽教師の父とピアニストの母の元に誕生。

1848年(9歳)パリ音楽院に入学。以後9年間在籍し、主にピアノ、オルガン、作曲を学ぶ。

1857年(19歳)カンタータ『クローヴィスとクロティルデ』でローマ大賞を受賞。以後3年間ローマに滞在。

1858年(20歳)『テ・デウム』を作曲。後に『ドン・プロコピオ』を作曲。

1860年(22歳)パリに帰国後、生計を立てるべく、作曲、指揮者、リハーサルピアニスト、伴奏者、編曲等あらゆる活動に従事する。

1861年(23歳)母親と師を相次いで亡くし傷心の中、アカデミーに2楽章と『オシアンの狩り』序曲を提出。

1863年(25歳)『ヴァスコ・ダ・ガマ』を国民美術協会において自ら指揮する。オペラ『真珠採り』を作曲。劇場と契約し、正式な作曲家に。

1866年(28歳)再度劇場と契約しオペラ作品『美しきバースの娘』を作曲。翌年に初演。

1869年(31歳)交響的幻想曲『ローマの思い出』の完成。アテネ劇場オープンに際して上演された、合作オペラの第一幕を作曲。

1870年(32歳)普仏戦争に際し、国民衛兵に志願。

1871年(33歳)オペラ=コミック座の依頼を受けて作品を手掛ける。

1872年(34歳)『アルルの女』を作曲し成功。続いて『カルメン』を作曲。

1874年(36歳)『カルメン』がオーケストラ版で公演。翌年初演を迎える。

1875年(36歳)家族と共にブージヴァルに移住。心臓疾患により死去。

 

ジョルジュ・ビゼーの生涯

ここからは早速、ジョルジュ・ビゼーの生涯と主な功績を見ていきましょう。

音楽一家に育つ

1838年10月25日、フランスのパリに生まれたジョルジュ・ビゼー。

ビゼーの父親は元々手工業者の家系でしたが、結婚を機に声楽教師となりアマチュア歌手や作曲家として活動していました。

一方で母親の家系は代々音楽家であり、ピアノ教師として幼いビゼーに音楽の手ほどきを与えています。

一人息子だったビゼーはそんな両親の元に育ち、自然と音楽家としての道を歩み始めることになったのです。

10歳の誕生日を前にパリ音楽院に入学すると、そこから約9年の在学中に、

・ピアノ
・オルガン
・作曲

を中心に学んでいます。

ピアノとオルガンに至っては在学中にどちらの演奏でも賞を受賞し、早くからその才能を覗かせていました。

またこの学生時代には、グノーやアレヴィー等音楽家たちから影響を受けたり、

・リハーサル担当のピアニスト
・楽譜の編曲者

としても活動し、パリの劇場に親しんでいます。

これらの経験が後にオペラ作品の制作へと影響を与えることになりました。

多彩な活動

19歳の時にカンタータを制作し、若い芸術家たちにとっての登竜門と言えるローマ大賞を受賞した、ジョルジュ・ビゼー。

ビゼーはその後の3年間をローマを拠点としてイタリアに留学し、様々な芸術が花開くその地で年に一度の作品提出を条件に、感性を磨いていきます。

しかし実際にイタリア滞在中に制作した作品はどれもあまり評価を得ることができません。

さらに3年の期間が終わりを迎える間近になって母親の病気を知り、不完全燃焼のままパリに帰国することになりました。

帰国後のビゼーは生計を立てるためにあらゆる仕事に携わっています。

・オペラの作曲
・出版社の要請に応じた作品の作曲
・コンサートでの指揮者
・リハーサル担当のピアニスト
・伴奏者
・音楽家たちの作品の編曲

等々、オペラでの成功を夢見ていた若き日のビゼーは、パトロンを探す一方でその才能を活かし様々な活動をしていました。

オペラの作曲家へ

様々な活動をする中でも、積極的に自身の作品制作を続けていたジョルジュ・ビゼー。

ビゼーは度々作品を途中放棄することもありましたが、この頃に制作した2作品、

・交響的頌歌『ヴァスコ・ダ・ガマ』
・オペラ・コミック『太守の一弦琴』

をその年のアカデミーに提出すると、25歳の時には前者を自身の指揮によって国民美術協会にて指揮しています。

そして同じ年に制作した『真珠採り』によって、彼はオペラ作曲家としての地位を確立することになったのです。

しかしこの作品自体は当初、聴衆や批評家たちからあまり評価を得られませんでした。

その一方でビゼーの作曲能力については各所に認められます。

特にある劇場の支配人に気に入られたことで、ビゼーは晴れてそこでのオペラ作曲家として契約を結ぶことになりました。

以後、オペラ作曲家として生計を立てられるようになったビゼーは、精力的に作曲を続けます。

代表作と晩年

ジョルジュ・ビゼーは正式にオペラ作曲家となってからも、実は編曲活動や交響曲の制作も行っています。

1867年のパリ万博の際に行われた聖歌とカンタータのコンクールにも応募していました。

28歳の時には彼の代表作の一つ『美しきバースの娘』を作曲。

1870年に勃発した普仏戦争によって、一時劇場での音楽全般の上演が困難になるも、その後はパリでの新たな気風に沿った音楽活動を続けていきます。

そして1872年、34歳を迎えた年にビゼーは自身の最も有名な2作品にして晩年の大作となった、

・『アルルの女』
・『カルメン』

を作曲したのです。

しかし今でこそ有名なこの2作品でしたが、生前の評価は高いものとは言えなかったのです。

晩年のビゼーは

・作品の不評
・持病のリウマチの悪化
・結婚生活の破綻

などの問題に苦しむことになりました。

そして1875年6月、セーヌ川で水浴した後に心臓疾患を発症し、36歳でこの世を去りました。

 

リストを驚かせた

ここではジョルジュ・ビゼーの人物像にもう少し迫るべく、ビゼーにまつわるエピソードを1つご紹介します。

イタリア留学から帰国し、パリでがむしゃらに働いていた頃。

ビゼーは、フランツ・リストの前でピアノ演奏する機会を得ました。

その時に演奏した曲についてリストは当初、それを完璧に弾ける人間は自分ともう一人の演奏家だけだと言い切っていました。

しかしビゼーは実際にその曲を完璧に演奏しきってみせ、3人目の演奏者として認められたのです。

オペラ作曲家になることを目指していたビゼーでしたが、実際にビゼー自身の演奏技術も相当なものだったことが分かるエピソードです。

 

きょうのまとめ

今回は、ジョルジュ・ビゼーについてその生涯を主な功績と共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ジョルジュ・ビゼーとはどのような人物だったのか簡単にまとめると

① 19世紀に活躍したフランスの作曲家

② オペラ作曲家の他にも音楽家として様々な活動に従事していた

③ 音楽的な能力は認められるも、作品については生前に高い評価を得られなかった

時代の先を行っていたばかりに生前は不遇な思いを経験したジョルジュ・ビゼー。

しかし彼の功績は作品という形で残り、現代の私たちにもその足跡を見せてくれています。

 
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