ショーペンハウアーとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

19世紀に生きたドイツの哲学者

アルトゥール・ショーペンハウアー

世界を「苦」と定義しつつも、一方では「生の哲学の祖」としても知られています。

ショーペンハウアーとは、一体どのような人物だったのでしょうか。

今回は、彼の遺した功績と共にその生涯に迫ります。

 

ショーペンハウアーはどんな人?

プロフィール

『意志と表象としての世界』完成の三年前、27歳頃の肖像。L・S・ルール画
出典:Wikipedia

  • 出身地:ダンツィヒ(ポーランドの都市グダニスク)
  • 生年月日:1788年
  • 死亡年月日:1860年9月21日(享年72歳)
  • ドイツの哲学者。「生の哲学」の祖。ペシミズム(厭世主義)の代表格とも。

 

ショーペンハウアー 年表

年表

西暦(年齢)

1788年(0歳)裕福な商人の父と名門出身の母の元、ダンツィヒに誕生。

1793年(5歳)一家でハンブルクへ移住。

1797年(9歳)フランス語習得のため、ルアーブルの貿易商の家に2年間預けられる。

1799年(11歳)ハンブルクへ戻り、商人育成のための私塾に進学。翌年家族と3カ月のプラハ旅行へ。

1803年(15歳)父親の仕事を兼ねて家族と約1年間、ヨーロッパ周遊旅行へ。

1805年(17歳)帰国後、再び商業教育を受ける。

1806年(18歳)父親の死と仕事に対する精神的苦痛からイタリアへ渡る。

1807年(19歳)学問の道に進むことを決意。ギムナジウムを転々とする。

1809年(21歳)ゲッティンゲン大学に入学。プラトンやカント、インド哲学について学ぶ。

1811年(23歳)ベルリン大学へ転学。本格的に哲学の研究を始める。

1813年(25歳)博士学位論文をイェーナ大学に提出。ゲーテに才能を評価される。

1815年(27歳)ゲーテの依頼で色彩論『視覚と色彩について』を執筆。翌年刊行。

1818年(30歳)『意志と表象としての世界』を執筆後イタリア旅行へ。

1820年(32歳)ベルリン大学で教職に就くも、当時圧倒的人気だったヘーゲルの講義に負け辞職。

1822年(34歳)スイスを経て再びイタリア旅行へ。

1823年(35歳)帰国後、ミュンヘンへ赴き病に罹り、右耳の聴力を失う。翌年治療のため各地を転々とする。

1825年(37歳)再びベルリン大学で講義を行うも人気は出ない。『意志と表象としての世界』は徐々に評価を集める。

1831年(43歳)コレラを恐れてベルリンから地方に移住。

1833年(45歳)フランクフルトに定住し隠遁生活へ。

1836年(48歳)『自然における意志について』を刊行。

1839年(51歳)ノルウェー王立アカデミーに応募した懸賞論文、『意志の自由について』が入賞。

1841年(53歳)『倫理学の二つの根本問題』を刊行。

1843年(55歳)『意志と表象としての世界』の続編が完成。

1845年(57歳)『余禄と補遺』の執筆開始。

1850年(62歳)『余禄と補遺』の完成。翌年刊行。

1858年(70歳)ベルリン王立アカデミーから会員の推薦をされるも拒否。

1860年(72歳)肺炎により死去。

 

ショーペンハウアーの生涯

ここからは早速、ショーペンハウアーの主な功績について簡単にご紹介していきます。

根底にある思想

ショーペンハウアーの思想を見ていくうえで押さえておきたいのが、その根底にあるもの。

彼はまず、この世の中を「苦である」と断定しました。

そのような思想に至った背景には、

・少年時代に旅先で見た貧困や格差の現実

・学生時代に触れたプラトンやカントの哲学思想

・インド哲学や仏教哲学

といったものたちが、彼の世の中の見方に大いに関係していると言えます。

ショーペンハウアーは世界を一歩引いたところから見て、

「人生というのは困難や苦労の連続である」

としたのです。

そういった根底にある思想から、彼は「ペシミスト(厭世主義者えんせいしゅぎしゃ」とも捉えられています。

目指したもの

しかしショーペンハウアーは、ただ世界について嘆くだけでは終わりませんでした。

彼は世界を「苦」として認識したうえで、人としての理想的な生き方を模索したのです。

・人はなぜ苦しむのか

・苦しみに満ちた世界で人が生きる意味とは

・なぜ世界は苦しいのか

・苦しい世界でどうやって生きたらいいか

等々。

ショーペンハウアーは、世に蔓延る苦しみを根底に据え、そこから生きるということの希望を探し続けました。

これに関する考えは、代表作である『意志と表象としての世界』で著されています。

本作や彼の思想全体については、エッセイ『余禄と補遺』のベストセラーを受け、晩年になってからようやく名声を得るにつながりました。

世の中を悲観的な視点で捉えつつも、そこから生きる希望を見出すショーペンハウアーの思想。

それは後に「生の哲学」として、ニーチェやワーグナーなど、哲学者だけでなく芸術面にも大きな影響を与えることになったのです。

 

ショーペンハウアーにまつわるエピソード

ここではショーペンハウアーの人柄にもう少し迫るために、彼にまつわるエピソードをご紹介していきます。

両親の影響

アルトゥール・ショーペンハウアーは、一代で財を成したやり手の商人のもとに誕生しました。

息子にも商人としての道を歩んでほしいと望んだ父親は、少年時代の彼に一般的な学問ではなく、商人になるための英才教育を受けさせます。

10代になる頃には、海外との貿易や社交を見せるために家族総出でヨーロッパを周遊し、息子にも商人としての自覚を芽生えさせようとしました。

しかし皮肉にも、この1年に渡る旅行で少年ショーペンハウアーの印象に残ったのは、

“都会の吹き溜まりに捨て置かれた貧しい人々”でした。

そして18歳の頃に父親が突然死去すると、彼は商売と学問への憧れの間に苦しみます。

そんな迷える彼の背中を押したのが、作家だった彼の母親でした。

母親からの手紙で学問の道へ進むことを応援されると、ショーペンハウアーは20代を目前にしてようやく本格的に哲学の門を叩いたのです。

母親とゲーテ

母親の後押しを受けて哲学者としての道を歩むことになったショーペンハウアー。

しかし彼は、やがて母親と決別することになります。

そのきっかけになったのが、文豪ゲーテの存在でした。

母親と親交のあったゲーテがショーペンハウアーの学位論文を読んでその才能を認めると、ゲーテとショーペンハウアーの間では頻繁に哲学の議論が交わされるようになりました。

やがてショーペンハウアーが母親よりもゲーテの意見を重要視するようになったことで、母子の関係は崩れていったのです。

そしてお互いの著作を批判するまでになり、20代半ばで二人は絶縁してしまいました。

 

きょうのまとめ

今回はドイツの哲学者、ショーペンハウアーについて、その生涯を功績と共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ショーペンハウアーとはどんな人物だったのか簡単にまとめると

① 19世紀、主にドイツで活動した遅咲きの哲学者。

② 厭世主義者とも言われているが、その思想は「生の哲学」として後世の哲学や芸術に影響を与えた。

③ 主著『意志と表象としての世界』は、後のエッセイ集『余禄と補遺』によって注目を集めるようになった。

世界に満ちる苦しみを認めたうえで、そこから生の希望を模索したショーペンハウアー。

彼の思想の痕跡は、現代に生きる私たちの心にも響くものがあるのではないでしょうか。

ご興味を持たれた方は、是非一度彼の著作を手に取ってみて下さい。

あなたの人生に、何かしらの気づきをもたらすことでしょう。

 
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